2013年
5月号
豊原国周『一谷嫩軍記・須磨浦の段』 熊谷・市川団十郎、敦盛・尾上菊五郎

浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 ― 義経登場 ―

カテゴリ:文化・芸術・音楽

中右 瑛

熊谷と敦盛『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』

一の谷合戦の一番乗りは、熊谷次郎直実といわれている。義経軍の逆落とし奇襲の直前に熊谷は塩屋(神戸市)あたりから攻め入った。そのとき、混乱の平家の陣から一騎、若武者が沖合の船をめざして駆け出した。これを見た熊谷は
「卑怯者ぞ!」
と叫び戻したのだが、この若武者こそ、平家の公達・敦盛公であった。組み討ちとなったが、ここで熊谷の手がいっとき止まる。敦盛公はわずか十五歳、わが子と同じ年ごろ。どうして討てようか。しかし、周囲の緊迫下、熊谷は心の動揺をおして、けなげな敦盛公の首を討ち取った。
絵(挿図①)は、岸辺から、沖合いを目指してゆく白駒にまたがった敦盛公を、岸辺から扇で差し戻す黒駒の熊谷次郎直実が描かれている。若々しい敦盛公を白に、荒武者の熊谷を黒に描き分けて、柔と剛の対照を強めている。絵師は武者絵・役者絵を得意とした勝川春章。
判官びいきは、幼き者のいのちを奪った熊谷に「武士の情けを知らぬ無粋者!」との非難を浴びせた。熊谷も自戒の念にいたたまれず、出家したと云われている。

この物語は、江戸時代になって人形浄瑠璃や浮世絵に取り上げられた。それらは、合戦軍記物としてよりは、武門の掟、武士の心理や内面を描いている。
江戸の人形浄瑠璃作者・並木宗輔らは、この物語に見事なトリックを使って「一谷嫩軍記」を宝暦元年(1751年)に初演した。大好評でのちに歌舞伎化された。
芝居では、合戦の直前、堀川御所(京)で、義経は熊谷に「一枝を切らば一指を切るべし」の制札を渡して一の谷に向け出陣した。平家の若き公達(敦盛)を討ってはならぬという謎かけである。
高札の意を理解した熊谷は、わが子・小次郎を敦盛公の身代わりにする。子を犠牲とした熊谷は出家する。わが子を犠牲にしてまで忠節を尽くした熊谷の心情。典型的な忠節、義理人情を表現した芝居だが、封建社会の主と従、親と子などの人間の絡みや非情なる掟が、見事に演出されている。戦争が残酷にも一家族の運命を変え、散り散りになっていく悲劇が描き出された。
戦争の狂気か?分別ある男の判断を狂わし、極限に見せる異常心理の恐ろしさ、武門の掟の厳しさなど、ひしひしと感じとれる。江戸の民衆は、生涯苦しむ熊谷という男の真摯な姿に同情し、涙を惜しまなかった。

(挿図 ①)勝川春章「敦盛を呼び戻す熊谷」


豊原国周『一谷嫩軍記・須磨浦の段』 熊谷・市川団十郎、敦盛・尾上菊五郎

■中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。

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