12月号
神戸の初詣
蘇えりの象徴〝生田さん〟 新宮司に聞く
加藤隆久宮司の勇退をうけ、新たな宮司に就いた六車勝昭さん。子どものころから
親しみ、40年以上にわたり神職を務めてきた生田神社への思いをお聞きした。
生田神社 宮司 六車勝昭さん
生田さんに神様がおられる限りは…
私は実家が元町の走水神社ですので、生田さんのあたりも遊び場の一つでした。もちろん当時は、自分が生田神社宮司になるとは思ってもいませんでした。
1800年以上の歴史を持つ生田神社は、「神戸」という地名の発祥といわれています。先々代の福田義文宮司は大変なアイディアマン、続いて、阪神・淡路大震災で倒壊した拝殿再建にも尽力された加藤宮司が28年もの長きにわたり務めてこられました。そして、皆さんから「大丈夫か?」と心配いただいている私です(笑)。プレッシャーはありますが、若い頃にお聞きした福田宮司の「生田さんに神様がおられる限り、誰にでも宮司はできる。誠を尽しさえすればいいんや」という言葉を支えに、気持ちを引き締めております。
氏子さん、地域の皆さんに助けられて
41年前、生田神社で神職に就いて以来、兵庫宮御旅所に30年ほどいましたので、特に兵庫の氏子さんとは長いお付き合いさせていただいてきました。地元神戸の友人、知人をはじめ、皆さんには随分と助けていただきながらここまでやってきました。宮司にはなりましたが、「初心忘するべからず」。氏子の皆さんの支えがあったからこそここまで来られたことを忘れてはならないと肝に銘じているところです。
神社は神様をお祀りするのはもちろんですが、地域社会の中心的存在でなくてはいけません。神社に人がたくさん寄って来てこそ御神威も増すものです。氏子の皆さんをはじめ地域とさらに密着し、支えていただきながらやっていくのが一番大事だと思っています。
震災復興の指針となり20年
来年は震災から20年を迎えます。生田神社は拝殿が全壊し、〝地に這った拝殿〟が報道されたときのショックは今でも忘れられません。御旅所も社務所が潰れ拝殿は傾き、玉垣も手水舎も鳥居も全て壊れてしまいました。周辺では古い木造の家の多くが潰れ、何人もの方が亡くなられました。
生田神社境内は危険でしたから、震災直後は門を閉めていたのですが、たくさんの方が門の外から拝礼されていました。その姿を見て、「神戸の守り神として復興のさきがけにならなくてはいけない」と、加藤宮司以下全員が強く感じました。そこで、職員、氏子同意の下、早々に再建に取り掛かりました。自宅の再建もままならないにもかかわらず、多くの氏子さんたちにご協力いただきました。結果的に1年半で復興し、これが復興の指針となり、神戸の人たちに勇気を与えたと信じています。
源平の戦以来、この辺りは戦禍の絶えない場所で多くの方が亡くなり、昭和20年6月の神戸大空襲では生田神社も全て焼けてしまいました。戦後、本殿が再興されたのが昭和34年。その間、参拝は戦災に遭っていない長田神社や湊川神社中心でした。今でこそたくさんの参拝をいただいていますが、昔は周辺の歓楽街は夜になると賑わうのに、生田神社をお参りする人は少なく、こちらから氏子さんの元へ出向いてあれこれとお話をする。そんな時代でした。その後、東急ハンズや地下鉄三宮駅もでき、次第に人の足も向くようになりました。街はどんどん変わる、街は生きているんですね。
幾多の戦禍、そして神戸大水害、大震災と次々、災難に見舞われながらも、その度に蘇えり、賑わいのある神社になりました。生田神社は復興の象徴であり、〝蘇えり〟では頼りになる神様だと自負しております。
市民が憩うオアシスに…
街なかにあり、境内もそんなに大きくない神社ですが、市民の皆さんの憩いの場にできればいいですね。鎮守の森の緑をもっと増やし、桜の木も植林し、街中のオアシスに…などと夢を描いています。まだまだ時間はかかりますが、少しずつ進めていければいいと思っています。
来年も、善男善女が幸福を願って、大勢お詣りにお越しになる初詣の時期がやってきます。けがや事故もなく安全にお詣りいただけるように、まずは万全の準備を進めてまいります。