7月号
有馬温泉史略 第七席|謀反謀反で湯山(ゆのやま)~三木合戦と 有馬温泉 戦国・安土桃山時代
謀反謀反で湯山~三木合戦と有馬温泉 戦国・安土桃山時代
有馬温泉と言えば、太閤秀吉!というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか?いよいよ今回からそのフェーズに入っていく訳ですが、何せ秀吉に関する資料は膨大で、記述や解釈もまちまち。ですから今回の内容が「ちょっと違うなぁ」と思われても、ザザッと読み流しつつ、生温かい心で許してやってくださいませ。
さて、前回は室町時代に現在の温泉カルチャーが芽生えてきたというお話でしたが、今回は政治状況の視点から。室町期の有馬は主に赤松氏の分家が治め、自らの姓をこの地の名から「有馬」と称しました。ちなみにこの有馬家、本家は後述のように滅びますが、分家は遠く久留米藩主として君臨、維新後も家系は続き、その十五代当主、有馬頼寧こそ競馬の下半期のグランプリ、有馬記念の発案者です。ちなみに上半期のグランプリは宝塚記念ですが、宝塚も有馬温泉へ通う拠点として栄えてきた歴史が。つまり、有馬温泉なくして*メジロパーマーなしなんです。
話を戻して…、その有馬家の二代目、有馬持家が足利将軍六代義教やその嫡子の八代義政の寵臣だったようで、もしかしたらそのような縁か、義教の父の三代義満や、義政の甥の十代義稙が有馬に入湯しています。
16世紀の半ば頃、有馬家が三好長慶の傘下になり、有馬温泉というか摂津一帯は三好政権の支配下に。が、程なく織田信長が台頭し、その重臣、荒木村重の統治に取って代わられ、有馬家本家は村重によって1575年に滅亡してしまいます。
その頃、織田と毛利という巨大勢力の狭間にあった現在の兵庫県一帯は、その覇権を争う戦乱の舞台となるんですが、中でも三木合戦は有馬温泉に大きな影響を与えます。
1577年、秀吉は織田方の大将として播磨へ派遣され、黒田官兵衛・竹中半兵衛の「ダブル兵衛」らと西播磨で毛利サイドを攻めますが、その最中の1578年、突如三木の別所氏が織田に謀反!そこで勃発したのが三木合戦です。当時、三木一帯の主要道は有馬温泉に通う街道がベースで、その要所要所を別所方が抑えていたのを、秀吉らが奪いロジスティクスを遮断。三木城の別所軍を孤立させ、やがて〝ほしころし〟にします。
ところが翌1578年、なんと摂津を抑えていた荒木村重が信長に謀反!信長はそれを討つべく摂津に向かうのですが、この滞在が長引くと予見した秀吉は、主君、信長を湯山=有馬温泉でもてなそうと考え、その入口にあたる山口庄(現在の西宮市山口地区)の百姓たちに道普請を命じます。結局、信長は湯山へ行かずじまいでしたが、これが記録上、秀吉と有馬温泉との最初の関わりのようですね。この頃すでに湯の街有馬は実質的に秀吉の勢力下にあったようで、湯山奉行に信頼の厚い仙石秀久をおき、負傷兵の療養拠点にと考えていたようです。
では最初に秀吉が有馬の湯に浸かったのはいつかと申しますと、三木城を攻め落とした直後の1580年という説があります。この時、三木攻めで疲れ切った秀吉は二昼夜まるまる寝倒したという逸話が残ってるんですよ。でもね、この有馬入湯については明確な史料がなく、不確かな点が多いんですわ。
じゃ、文献史料で確認できる最初の入湯はいつかと申しますと、本能寺の変~山崎合戦を経て秀吉が天下レースの最前線に躍り出た後、1583年になります。が、その前に秀吉はある大物を有馬に招いています。
それは、浄土真宗のトップ、顕如。村重の謀反は顕如の計略という説もある本願寺の実力者で、比叡山焼き討ちや高野聖の大虐殺など僧侶を苦しめる信長を敵視していましたが、仇亡き後に実質トップとなった秀吉とは和睦、天下統一を目指す秀吉も顕如をキーマンとみて厚遇した訳です。秀吉は政治的にもうまいこと有馬温泉を利用していたのですね。
そしていよいよ、これから有馬を舞台に秀吉があれやこれやと行動します。が、残念ながら今回はここまで。次回をお楽しみに!
*メジロパーマー=1992年の宝塚記念・有馬記念の両グランプリをいずれも人気薄で制した稀代の逃げ馬。