7月号
神戸で始まって 神戸で終る ㉙
第17回展は「HANGA JUNGLE」。本展の担当キュレイターは山本淳夫さん。この「HANGA JUNGLE」は町田市立国際版画美術館との共同企画による巡回展であった。「JUNGLE」というキーワードは、僕の多義的な表現がジャングルの群生を象徴しているところと、僕の永遠のヒーローであるターザンの世界を結びつけて名付けたタイトルである。そうした理由から、会場にはターザン映画を彷彿とするターザンの雄叫びが流れて、血沸き肉躍るという野生回帰的な雰囲気が演出された。
僕の作品の多義性がジャングルの密林を表しているというやや苦しいコジツケだが、こうした世界は僕の幼少年期のアイドルであるターザンと、少年時代に読んだ南洋一郎の密林冒険小説、ことに和製ターザン「バルーバーの冒険」は、今も僕の作品の根底で雄叫びを上げている。ターザンやバルーバーは文明社会から離脱した密林を舞台に大活躍するその奮闘振りが、そのまま僕の中で血肉化して創造の核になっているインファンティリズム(幼児性)を掻き立てずにはおれない。創造はある意味で自分の中の子供への回帰を促す。子供の精神の中には、物語を創造する力が宿っている。芸術とは永遠の子供との遭遇である。子供と大人を分け隔てるのは、この子供心である。子供はいつまでも心の中に物語と冒険心を抱き続けているが、この心を失った者が、いわゆる大人である。こうした子供心を失った大人を如何に子供時代に回帰させるかということが芸術の使命ではないだろうか。
僕が初めて版画を手掛けたのは1965年にパリ青年ビエンナーレに出品したことから始まる。当時は僕はグラフィックデザイナーで版画には全く無関心であった。第一、パリ青年ビエンナーレという現代美術の展覧会のことなど全く知らなかった。この時、この国際展のコミッショナーでもある美術評論家の東野芳明さんが、「このところ日本は賞に見離されているので、ひとつ賞を獲ってもらいたいんだ」と無理な注文を出して僕に版画の出品を依頼してきた。第一、僕は版画家ではない。このような国際的な現代美術展に出品するような資格も能力もない。そんな版画の世界では素人の僕に、東野さんは一体何を考えているのだろうと、その返事はワッハッハッと笑うしかなかった。最初は悪い冗談とばかり思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。
「第一、版画なんかどうすればいいのかわからない」と言うと、「君はシルクスクリーンのポスターを作っているじゃない」と。まさかポスターを版画ですといって出品するわけにはいかんでしょ、と断ったが、「賞を獲ってもらいたい」と無茶苦茶な条件である。あんまりしつこい、それ以上に時間もない。丁度この頃、シルクスクリーンのポスターを作っていたので、その片手間にでも作るか、と3点シリーズの版画らしい作品を作った。その作品が、なんとグランプリを受賞したのである。とにかく驚いた。賞を獲って喜ぶのは僕ではなく東野さんだった。東野さんは自分の予想が当たったと、御機嫌であった。この時の作品は「責場」と題するエロ写真を素材にして作った作品である。(写真参照)
それ以後、版画の依頼などがあって、東京国際版画ビエンナーレのために制作したポスターが、出品作品でもないのに、この作品にグランプリを与えるべきだと、イタリアの審査員が提案したために、審査が混乱したというエピソードなどが生まれ、その後、国際展の出品依頼や受賞などが重なって、何となく版画家の仲間入りを果たすことになった。
この展覧会のあと、僕は去年まで版画は休業していた。版画作品は思い立ったように作るので、その間、何年も空白時期がある。それ以前の作品との関連性は全くないので、毎回バラバラの傾向の作品を作る結果になる。まあこのバラバラは版画に限らず、絵画作品にも共通していて、制作の都度、主題も様式も異なるのは毎度のことである。去年作った版画は写楽をテーマにした木版画である。この美術館では発表されるかどうかは未定であるが、さらに目下、「寒山拾得」を版画にした木版画を制作中である。版画技術も年々進化していて、驚くような作品も現れている。いつか、そのような新しい技術による版画作品も作ってみたいと思っている。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。令和2年度 東京都名誉都民顕彰ほか受賞・受章多数。
横尾忠則現代美術館にて開館10周年記念「横尾忠則 寒山拾得への道」展を開催中。3月に小説「原郷の森」(文藝春秋社)が刊行された。
http://www.tadanoriyokoo.com