5月号
有馬温泉史略 第五席|謎のベールに包まれた 有馬の復興主、仁西(にんさい)鎌倉時代
語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。
謎のベールに包まれた有馬の復興主、仁西鎌倉時代
時は承徳元年の秋、鈍色の雲厚く六甲の山々に蓋をなし、黒風白雨は幾日ぞ。風神咆哮雷神爛々、雲龍は逆巻きて嵐を起こし、天の狂乱大地に響きて大樹の根を揺るがす。斜面は崩れ谷は埋まり家々は山津波に呑み込まれ、泉源土砂に溺れ湯は湧きもせず注ぎもせず。天皇貴族の覚えめでたき天下の名湯は土中に没し、有馬の栄華も沈んでしまった。
それから九十五年の星霜を経た建久二年二月の半ば、和州吉野の僧、仁西の枕元に熊野権現がお出ましになり、「津の国有馬の山中に温湯ありしが洪水で荒れ果て今や知る人ぞなき有様、汝、彼の地に赴きてこれを復興せよ」とのご神託。仁西は蜘蛛の案内で川を渡り峠を跨ぎ、いよいよ有馬まであとわずか。すると蜘蛛に代わって老翁現れ山へ導き、「木の葉を投げそれが落つるところに再び湯が沸くであろう」と曰うて忽然と消えた。仁西は一枚の葉を投げそれがひらり舞い落ちた場所を掘るとあら不思議、金色の湯が滾々と甦った。これより有馬の再興に粉骨砕身の仁西、吉野より平家の残党を呼び寄せ、薬師十二神将にちなみ十二の宿坊、有馬十二坊を開いたのでありました。めでたしめでたし。
以上、有馬に伝わるお話でございます。承徳元年は1097年、建久二年は良い国つくろう鎌倉幕府の前年ですが、もうツッコミどころ満載。木の葉を投げた山は落葉山らしいけど、ここから7泉源のうち一番近い御所泉源までは直線距離で約500メートル。葉っぱがそんなに飛ぶかって話ですよね。紙飛行機最長不倒のギネス記録ですら69メートルですよ。
史料を紐解きますと、1097年の水害で有馬に被害が出たことは間違いなさそうですが、その31年後の1128年には白河法皇、1178年には後白河法皇と建春門院、1186年には藤原兼忠とやんごとなき方々が入湯したという記録があります。つまり、有馬温泉は仁西以前に復活していたようなんです。
そもそも仁西というのは謎な人で、ググると有馬温泉関連以外の情報はほぼ出てきません。有馬ローカルの伝説上の偉人で、復興譚も作り話なのか?でも、有馬に新年を告げる入初式では仁西上人と崇められ、初湯で沐浴していただくという破格の扱いを受ける訳で、バーチャル上人じゃ格好がつきません。
仁西はもともと高原寺の僧と伝えられますが、それは吉野郡川上村高原の福源寺のことのようで、ここの開祖は修験道のパイオニア、役小角ですから、仁西も修験者や山伏だったのかも。また、木地師の祖とされる惟喬親王が二度にわたり隠棲した高原は、木地師が定住した木工の里であるとともに、聖地、大峰山の登山口に位置し宿場の機能もあったようで、里人にとって宿泊サービスもお手のものだったんでしょう。で、有馬山椒の名店、川上商店の祖は川上村出身、有馬人形筆を発明した伊助も川上ゆかりの人物だったとか。有馬の産業は高原や川上と結びつきが深いのです。
想像するに…高原の人たちが木地師として良材を求め有馬の山へ来て定着、やがて宿や土産物屋を営み水害から再起しつつあった有馬の地域振興にも手腕を発揮した。で、その集団のリーダーこそ里の住持だった仁西で、有馬温泉の恩人と相成った。高原には惟喬親王の時代より自治の中心をなした十二人衆という組織があり、有馬十二坊はこれに由来するという説も一考の余地ありじゃないかと。
仁西や鎌倉初期の復興については諸説ありますが、福源寺の薬師如来像ならその真実をご存じのはず。1085年に開眼し、仁西の時代に高原から有馬へ遷り、有馬で大火事があった1695年に高原へ戻ってきたとか。逸ノ城よりも大きそうなこれだけの仏像が有馬と吉野の間を往き来したのですから、多くの人たちが関わったのでしょうね。ぜひ祈祷料2千円を納めて、ふくよかで柔和な薬師様に歴史の真相を訊ねてみてください。