7月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑮手塚治虫前編
「自分が描かねば誰が書く…手塚治虫の創作魂は永遠に」
自分の庭・神戸―からのメッセージ
〝漫画の神様〟と呼ばれた手塚治虫(1928~1989年)は、「マンガは子供向け」という概念を大きく変えた。幅広い世代に向け、多岐にわたるジャンルの作品を発表し続け、漫画の可能性を広げ、その魅力を世界へ伝えた。「今ここで自分が描かなければ誰が描く」と語っていた彼は、アニメ制作会社も創設し、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」など誰もが知るヒット漫画のアニメ化などに尽力する一方、硬派な社会派作品も数多く手掛けた。
亡くなる4年前に発表した、神戸を舞台にした「アドルフに告ぐ」は、ラジオドラマ化や舞台化されるなど現在まで語り継がれる傑作の一つだ。第二次世界大戦の史実を交え、真正面から反戦を、そして命の大切さを問う。戦前からの神戸をつぶさに見てきた手塚にしか描けない、正に「自分以外、誰が描くのか」という覚悟、気迫がにじみ出てくる作品だ。
アトムやレオなど、手塚は世界の人々が憧れる理想の正義のヒーローを数多く生み出してきたが、こう言い続けていたことを知っているだろうか。
「漫画に必要なのは風刺と告発の精神だ」と。
兵庫県宝塚市で幼少期を過ごした手塚は、「神戸は目と鼻の先でしたので、まあ自宅の庭みたいにうろつきまわって遊んでおりました町です」と語っている。そして、「アドルフに告ぐ」について、「いうならば私の戦前・戦中日記のようなものです」と明かしている。
「明石は火の海だ! 次は神戸の番か…」。作中、米爆撃機B-29の編隊が神戸市上空を越え、明石市の川崎航空機(現川崎重工)の明石工場を空襲。防空壕に避難した市民が、おびえながらこうつぶやく場面は印象的だ。
自らの空襲体験を手塚は他の作品の中でも度々描いてきた。学徒動員で大阪の軍需工場で勤労中。B-29の空襲で焼け出された手塚が夜中に大阪から宝塚市の自宅まで一人で歩いて帰る途中、空腹で倒れそうになったとき。民家の女性からおにぎりをふるまってもらう実体験の場面も出てくる。
「アドルフに告ぐ」の中では、北野の異人館や元町の商店街、六甲山…など神戸の情景がふんだんに登場する。戦前・戦中の神戸の街並みが生き生きと描写されているが、漫画を描く際、資料探しに行き詰ったという。当時の「写真はほとんど焼けてしまってなかった」からだ。「私が、子ども時代、学生時代に遊んだ神戸の姿の記憶をほじくり返して描くことがほとんどでした」と言う。それでも、彼が漫画家人生の晩年になってこの作品を描いたのは、「目の黒いうちに、戦争の記憶を描き残しておきたかった」という思いと、戦争を体験した漫画家として、「子孫のためにもそうしなければならない義務があるように思った」からだった。
独自の世界観を持て
「漫画から漫画の勉強をするのはやめなさい。一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ」
自分のことを〝漫画の神様〟と慕う者たちへ、手塚はこんなメッセージを残している。
手塚の下で修業し、その後、活躍した〝弟子〟は多い。神戸市出身の横山光輝氏がベストセラーの長編「三国志」で、寺沢武一氏がハリウッド大作を彷彿とさせる「コブラ」で唯一無二の独自の世界観を築いたのは、こんな師匠の言葉を実践したからに他ならないだろう。
そんな手塚のアシスタントたちが、こんな壮絶な体験秘話を明かしている。
「当時、アシスタントは仕事場の床の上で寝転び、数時間でも睡眠がとれればいい方。でも、辛いとは思いませんでした」と話し、皆がこう続ける。「手塚先生が一番働いていたから。仕事場にこもり、自宅に帰るのは一週間に一度ぐらいでした…」と。
「銀河鉄道999」などで知られる漫画家、松本零士氏に取材した際に聞いた話にも驚愕した。
当時、福岡県在住の高校生だった松本氏の自宅へ手塚から、突然、こんな電報が来る。
〈テツタイコウ テツカ(手伝い請う 手塚)」〉
「出張で福岡へ来ていた手塚先生の臨時アシスタントをするため、先生の泊まっていた宿へ呼ばれたんです。複数の編集者も一緒に来ていて、何本かの連載原稿を仕上げた後、先生にこう言われました。『編集者に内緒でもう一本書かないといけないから』。先生は部屋の灯りを消し、電気スタンドの上から布団をかぶって、一本分仕上げたんですよ」
こんな、妥協を知らない〝漫画の神様〟から学んだ弟子たちのその後の活躍ぶりから、師匠から継承された創作魂のDNAが、日本の多くの漫画家たちに脈々と受け継がれ、日本の漫画やアニメが、今も世界の人々を魅了しているのだと理解できる。
「最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか」。手塚の言葉はいつの時代、どんな仕事にも通じる叱咤激励の声に聞こえる。
=後編へ続く。
戸津井康之