7月号
創立100周年 無限大の未来へ
学校法人 神戸学院 理事長
溝口 史郎さん
神戸学院の歴史は「森裁縫女学校」創立に始まる。現在の総合大学へと発展してきた100年について、溝口理事長にお話を伺った。
森わさが始めた裁縫女学校について
溝口 1912(明治45)年、森わさが生徒8人で創立したのが「森裁縫女学校」です。1923(大正12)年、五年制の森高等女学校へ。その後、学制改革により短期大学も併せて設立しました。短期大学設立申請時には、男女共学にという計画もありましたが、わさは「あくまでも女子教育に専念する」と頑として譲らなかったといいます。1945(昭和20)年、わさは引退し、創立時から教員として加わっていた、長女の山西登志得が跡を継ぎ、その夫、助一が経営に携わります。助一は非常に経営の才にたけた人でした。この2人が、今の神戸学院の礎を築きました。
森茂樹が開学した神戸学院大学
―大学開学にはご苦労があったそうですね。
溝口 私の義父にあたり、また京都大学医学部での師でもあるのが、わさの長男、森茂樹です。京都大学を定年退官後、山口医科大学学長を務め、当時県立大学だった山口医科大学を国立に昇格させるという大仕事を成し遂げ、戻って来ました。誰もが「これからはゆっくり過ごすのだろう」と思っていたところ、「四年制大学を男女共学で創る」と言い出したんです。
これには皆驚き、誰も本気にしませんでした。山西助一も「そんな夢みたいな話、とんでもない」と相手にしません。ところが熱意にほだされ、とうとう根負けしたのでしょうね。入学定員100人の栄養学部を創るということになり、場所も決定しました。当時西区伊川谷辺りは畑で、農地転用は大変な時代でした。大学を開設するにはいろいろ苦労があったようです。とにもかくにも1966(昭和41)年、神戸学院大学栄養学部栄養学科開設に至ったのです。
―何故、栄養学部を創ることになったのでしょうか。
溝口 その理由は、若い頃のドイツ留学の経験にさかのぼります。ベルリンの大学で研究室に入り1年間暮らしました。その時、日本人の体格が劣っていることにとてもコンプレックスを持ち、「これは日本人の栄養に問題がある」と気づいたそうです。日本人の食生活は、たんぱく質や脂肪が極端に少ない。栄養を変えることで、体質を変えることができると考えたのです。その後、熊本医科大学教授時代に、周りを説き伏せ「体質医学研究所」を開設しました。ところが発足直後、京都大学に教授として戻ることになったという伏線があるのです。
薬学部開設の志 半ばで逝く
―その後、学部新設が続き発展してきたのですね。
溝口 栄養学部を開設当初、知名度もなく、定員100人がやっとで、経営は大変でした。そこで文系の法学部と経済学部をつくろうと神戸大学に相談に行き、立派な先生方の協力を得て1967(昭和42)年に開設します。次に、薬学部を開設しようと志しますが、過労がたたって、1971(昭和46)年1月、病に倒れ、同年4月、尾上正男先生の手を握り「薬学部を頼む」と言い残し、亡くなりました。時を同じくして、山西登志得が急逝しました。跡を継ぎ学長に就かれた尾上先生を始め教職員が一致団結し森茂樹の志を継ぐべく努力し、翌年1972(昭和47)年には薬学部の開設が認可され、薬学科、生物薬学科が開設されました。
禅寺・祥福寺との不思議な縁
―溝口理事長は神戸大学の「The Zen会」の名誉会長をされるほど、仏教や禅にも造詣が深いそうですね。
溝口 京都大学教授で仏教学の権威・久松真一先生が作られた、禅と茶道を学ぶ会(心茶会)に、私は20歳で入門し、修行を始めました。それを知っているThe Zen会会長で、私の教え子でもある三木明徳君から「ぜひ、名誉会長に!」と言われ、「はいはい」と承諾しました。私は、今までに読んで感銘を受けた本を推薦して、輪読会を指導し、今は「ボロブドウル遺跡のレリーフに見るシャカムニの生涯」を読んでいます。
―いつ、どこで開かれているのですか。
溝口 兵庫区の祥福寺で月1回のペースで開いています。お寺のご厚意で座禅の指導と説法をいただいています。祥福寺は森わさと非常に縁の深い禅寺です。元の森裁縫女学校のすぐ北側にあり、わさは祥福寺の老師だった碧層軒愚渓と知り合ったことで禅に出会い、それまでの迷いが吹っ切れて本当の生き方を見つけたのです。それ以来、ぶれることなく女子教育にまい進しました。
―茶道は今でも?
溝口 2007(平成19)年、ポートアイランドキャンパス開設時に茶室「三輪庵」を造りました。外観は洋風ながら内部は本格的な日本建築。私の寄付だけでは、とてもあれほどのものは造れなかったと思いますが、資材提供などで卒業生ら、多数の方々の協力をいただきました。折にふれて、学生たちにお茶を点ててふるまっています。
学長をはじめ、教職員の努力が築いた100年
―理事長に就任されて24年目ですが、これからの神戸学院についてどうお考えですか。
溝口 1988(昭和63)年、長年にわたって理事長を務めていただいていた中野文門氏が体調を崩され、私はまだ神戸大学医学部の教授でしたが、翌年の定年退官までは代理人を立てるということで了解をいただき、引き継ぐことになりました。就任当初から「学事には、口出ししない」と決めています。医学部出身で、文系を含む総合大学に関する知識が全くない私の言葉が決定事項になってしまっては大混乱に陥りかねません。大きなトラブルもなく無事にここまで来られたのも、尾上学長をはじめ歴代の学長の努力があったからこそです。今、進めている100周年の記念事業も、岡田豊基学長を中心に、教職員一同が頑張ってくれています。私は、決まったことに「はい」と従うだけです(笑)。
―創設者の熱意が教職員に受け継がれているのですね。今後の更なる発展に期待しています。
溝口 史郎
学校法人 神戸学院 理事長
1949年京都大学医学部卒業、1年間のインターンを経て、大学院で脳の解剖学を学ぶ。1958年兵庫県立神戸医科大学(現神戸大学医学部)助教授就任、1968年教授に昇任。神戸大学では一貫して解剖学、主に人体の組織学(顕微鏡解剖学)と発生学の教育を担当。1989年神戸大学退職、学校法人神戸学院理事長就任、現在に至る。