4月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㉟ 『民芸入門』Ⅰ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
大型の封筒が届いた。宛名に注目。所番地のあとに、“用海小学校南門通り 「ギャラリー喫茶・輪」 御中 今村欣史様”とある。
一点一画を疎かにしない律儀な字だ。
裏を返してみると、やはり未知の人からだった。
封を切ると手紙とともに何かの資料が出てきた。手紙は便せん二枚、小さな文字が行儀よくきちんと並んでいて美しい。
《(略)突然にお便り申し上げ大変失礼いたします 貴方様の「喫茶・輪」のブログを拝読してお便り致しました》
ということだが、こんなことはこれまでにもよくあったこと。わたしのブログも少しは世の役に立っているのです。そのほとんどが宮崎修二朗翁関連ではありますがね。
手紙の主は、尾崎麻理子さんとおっしゃる鳥取民藝美術館の元学芸員で、今も同館の展覧会の企画立案、所蔵品調査などをなさっている方。なるほど、絣小紋のように一字ずつきちっと書かれた手紙文は職業柄なのだ。
手紙の内容を要約する。
鳥取民藝美術館は、医師でもあった民藝運動家の吉田璋也によって昭和24年に創設されている。今年70周年というわけだ。その吉田は保育社のカラーブックス『民芸入門』(昭和44年発行)を執筆しており、その時、図版解説を書いたのが宮崎修二朗翁だったと。さらに、吉田没後の昭和48年にデラックス版が発行され、これには宮崎翁による「わたしの民芸旅行」という新たな一文が追加されている。
尾崎さんの手紙は次のように続く。
《こうした本がどのような過程を経て生まれたのか 現在の鳥取には知る人がなく調べておりました折 貴方様のブログに出会いました 宮崎様が大変な文化人で現在もお元気であることを知り びっくりしました(略)》
要するに、『民芸入門』で重要な役割をしている宮崎修二朗という人のことを詳しく知りたいというわけである。
同封されていた資料を見る。
尾崎さんが手がけられた美術館関連のパンフレットのほか、昭和44年一月発行『民芸入門』の宮崎翁執筆部分のコピー、17ページ分。そして昭和48年発行『民芸入門』デラックス版の宮崎翁執筆による「わたしの民芸旅行」のコピー27ページ分。
翁、よくぞこれだけのものを書かれたものだと思う。翁は民芸の専門家ではない。にも拘わらず、当時は民芸の重鎮だったであろう吉田璋也の著書に解説をつけるとは。いまさらながらその博識ぶりに驚かされる。そういえば芦屋のご自宅を訪ねた時、そこかしこに、わたしにとってはわけのわからない、今思えば、いくつもの古びた民芸品が、吊るされたり転がっていたりしたものだった。
わたしはデラックス版の「わたしの民芸旅行」という一文に感動した。
旅に出ると
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
と、こんな言葉から始まる。太宰治の名作『津軽』にでてくる場面。そこから旅先での話へと筆先を伸ばす。
《窯元があれば、必ずのぞいてみる。細々と伝統を守っているこの道一筋の老工がいたり、人見知りする性格だから、と孤独の作業にはいった若者がいたりもする。そんなとき、じんわりと心が濡れてくる。温かい血が、からだに戻ってきたりもする。人生のいとおしさが、たまらなくなる。》
昭和48年ということは翁51歳だ。わたしはまだ知己を得てはいない。最も充実しておられた働き盛りのころである。
そして、その次のページにわたしの目はくぎ付けになった。
《さて、この写真はわが家の玄関で、約半坪。壁面にかかっているのは線刻地蔵の拓本だ。高さ三〇センチ。》
懐かしい。今はない通いなれた翁のご自宅。見慣れた線刻地蔵の額。あれは今どうなってしまっているのだろう。
翁の解説。
《あ、この地蔵さん。亡き愛児の冥福を祈って建てるのが、地蔵ですね。お金さえ豊かだったら、誰だって大きいもの、立体的なものをまつってやりたい、これが親心というものです。その涙の塔、思い出のよすがも、貧しい人びとにとっては、きびしい出費。辛いことだったと思うのです。
で、小さい、しかも線だけで地蔵さんを刻んだ。哀れな民衆の歴史のひとこまが、わたしの心を打つのです。》
わたしにはこの翁の文章こそが、わたしの心を打つ。
つづく
※鳥取民藝美術館では、4月13日(土)より9月上旬まで「吉田璋也『民芸入門』五十年」展が開催される予定。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。