11月号
早駒運輸株式会社 代表取締役社長 渡辺 真二さん・ブランディングプロデューサー 渡辺 美香さん|11.22いい夫婦の日
お互いが常に〝素〟でいられるから、全てを分かり合える
いつお会いしても、楽しく笑いが絶えない渡辺ご夫妻。震災という試練を乗り越え、早駒運輸を引き継ぐという大きな責任を背負い、お互いを思いやりながら歩んできた25年間です。
初対面なのに、初めて会った気がしなかった
―お二人には、いつ、どんな出会いが?
真二 1993年11月17日「アーバンリゾートフェア 93」が開催された年です。4月に「神戸シーバス」を就航させ、たくさんの知り合いができた中のお一人から「パーティーがあるから来ないか?」と誘われました。参加者の一人が美香だったんです。ドレスコードが「赤」でしたので、私はシーバスの赤いジャンパーを着て行きました。
美香 皆さん正装で来られている中で一人、ジャンパー!「あの赤の人、おもしろいよね」なんて友達と話していました。それが第一印象です。
真二 美香とは初対面なのになぜか初めて会った気がしなくて…。そして二次会で、「みんなで連絡先を交換しましょう」と発案。実は彼女のだけが欲しかったんですが、僕は(笑)。すぐに電話でデートに誘い、「付き合ってください」と申し込んだところ快諾してもらいました。
美香 私は「友達として付き合ったら楽しそうだな」というぐらいの気持ちでした。二人ともゴルフをすることが分かって、次のデートは練習場。音楽が好きなことも分かって、ジャズを聴きに行き…、同じことに興味を持って、同じ価値観を持っていて、一緒にいるととても楽しかったです。
真二 何か波長が合うんです。お父さん、お母さんにお会いしても、10年前から知り合いだったような感じで。
美香 なぜかみんなが親しみを込めて「しんちゃん」と呼びたくなる、しんちゃんマジック(笑)。
―そして、結婚へ?
真二 翌年1月1日、天保山で日の出を見ながらプロポーズしました。「はい」と言ってくれて嬉しくて、道の真ん中で前方回転受け身で転がって、足をくじきました。それほど嬉しくて。その年の6月15日、ハワイ・キャルバリー教会で結婚式を挙げました。
美香 渡辺母は神戸で女傑として知られている方で、私にとってもボスという存在でした。何でもハッキリおっしゃるのですが、それが私にはよかったです。その渡辺母が、海を仰ぎ見る教会で「親の役目を果たせた。パパを思い出して涙が出た」と話していました。
真二 六甲アイランドで新婚生活が始まりました。付き合った期間が短かったので、ゴルフや旅行、JAZZライブに行って、二人で過ごす楽しい時間でした。
新婚生活半年で、震災。夫婦の劇的なドラマが始まった
―恋人同士のような新婚生活ですね。
真二 ところが年が明けた1月17日、阪神・淡路大震災。そこから夫婦の劇的なドラマが始まりました。幸い自宅は無事で電気もすぐ復旧したので、翌日、御影に住む母を呼びましたが、島内のガスタンクが危険だと。ちょうどその時、神戸市から、外国人の方を神戸シーバスで脱出させたいので協力してほしいという要請もあり、3人で、船で本社に向かうことにしました。8人乗りの小さな船に乗り神戸に向かおうとしたとき、大阪に向かう船を見て母が突然、「美香ちゃん、あなたは大阪に行きなさい」。
美香 私はびっくりして躊躇しました。「一緒に大阪へ行きましょう」と涙ながらに言ったところ、渡辺母の答えは「ありがたいけれど、私の肩には三百人の社員とその家族の生活がかかっているのよ」。会社のトップの宿命とはこういうことなのかと胸に刻んだ言葉でした。そして、母はただ泣くだけの私の背中をポンと押し、私は隣の船に乗り移りました。
真二 そこからは涙の別れでした。遠ざかって行く船。飛行機と違って、船はずっと航跡が見えなかなか視界から消えていってくれない…。本社に着いたらすぐ目の回るような展開で、その翌日早朝から外国人脱出用の船、その後は市民の足となる船を出し続けることになり寝る間もない日々が続きました。あの時、母が美香を大阪に行かせる決断をしてくれたことに感謝しました。
美香 その船が、あの思い出の地・天保山に着いたんです。そして2月の初め、また天保山から神戸に向かう船が出て、今度は父と涙の別れ。父が未だに船の別れほど辛いものはない、と話します。両親は、社員分の食糧と水、薬を持たせてくれました。
真二 セミロングだった髪を今のようなベリーショートにして、覚悟を決めて帰って来てくれたんだと思うと、本当に嬉しかったですね。
いつも話をしていて、最後はいつも笑っている
―子どもさんが2000年に生まれてからは変わった?
真二 それまで〝ニコイチ〟だったのが〝サンコイチ〟になっただけ(笑)。ゴルフに行ったり、食事に行ったり、仲良しですよ。僕の両親も美香の両親も同じように仲良しでしたから、お互いにそれがごく普通です。それも二人が合う理由かも知れません。でも、それぞれに自分の世界もあり、彼女も自分がやりたいことに対して強い意志を持っています。セーラーカラーをモチーフにした boh boh Tシャツを震災で津波被害に遭った東北の子どもたちにプレゼントしようという発想は僕には決してできなかったと思います。そこから新たなご縁が広がりました。
美香 子ども中心にはなりましたが、何も変わりません。主人も子育てに参加してくれて、イクメンの先駆けです。
真二 甲南幼稚園に送って行くのは僕、甲南小学校に入っても集団登校に付き添い、とうとう6年間、通学路の見守り活動を雨の日も風の日も、出張の時以外は毎日、続けることになりました。その流れで子どもたちのドッジボール部の監督になり、自分の子どもは6年前に卒業しているのに今でも監督です。甲南学園広報部から頂いたご縁からまたご縁が広がりました。Tシャツが出来上がるのが1週間遅ければ、その後の佐渡裕さんやスーパーキッズ・オーケストラ、現在のスーパーストリングスコーベの総合プロデュースというご縁もなかったでしょう。美香との出会いも、ちょっとタイミングがズレていたらなかったわけですから、人生で一期一会のご縁はとても大切だと思いますね。
美香 私たちは、いつも話をしている夫婦だと思います。子どものことでは、最近はラグビーに勤しむ息子を交えて話をします。主人は話を打ち切ったりはしません。「でもね…」とまた話が一から始まっても聞いてくれます。私の機嫌がちょっと悪くなっても、おもしろいことを言って、結局私はケラケラ笑ってしまって。「そんなにおもしろいかな?」と息子にまで言われるんですけど(笑)。
真二 仲がいい夫婦というより、お互いに〝素〟でいられるから、全てを分かり合える存在でしょうか。
―ご縁の「糸」でつながっているのですね。楽しくて、ちょっと涙するお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。