7月号
里山から邸宅街へ 芦屋と東山町周辺の歴史
現在の芦屋市域には、打出、芦屋、三条、津知の4村が戦国時代までに成立していた。江戸時代には京から内陸を通ってきた西国街道が浜へ出て、本街道(現在の国道2号あたり)浜街道(現在の国道43号あたり)に分岐する打出が街村(がいそん)として大いに栄えた。明治初期になると行政区画として打出村、芦屋村、三条村、津知村が誕生、明治22年(1889)にこれら4村が合併して精道村となり、やがて昭和15年(1940)に芦屋市になる。
現在の東山町~東芦屋町にかけてのエリアは、六甲山系が東南へ舌のように突き出た部分にあたり、明治後期の地形図によれば山の端は針葉樹林で、丘の上に果樹園が見られ、平地になったところは水田やため池が確認できる。つまり、のどかな里山の風景が広がっていたようだ。
一方で周辺の集落では近代的な水車産業が営まれ、打出村と芦屋村の境界をなす大溝川は水車用の用水路でもあった。東芦屋の集落でも水車産業は発展、製粉や搾油、伸銅などがおこなわれていた。
明治38年(1905)に阪神芦屋駅、大正2年(1913)に省線(後の国鉄、現在のJR)の芦屋駅が開業すると、風光明媚な芦屋の地は別荘地として注目されるようになる。芦屋川東岸もまた、東芦屋の集落に隣接したあたりに別荘が建ちはじめ、やがて阪急芦屋川駅が大正9年(1920)に開業するとその動きは加速。東山町へと別荘地や郊外住宅地は拡大し、豊かな緑と明るい南向き斜面を生かした健康的な邸宅街へと変貌していった。
その背景には重工業の発展により大阪の住環境が悪化したとこと、阪神や阪急が積極的に郊外生活の良さをPRしたことなどが挙げられる。一方で東山町から東芦屋にかけての一帯は、鉄道会社や不動産会社などによる開発とは一線を画し、富豪たちが好きな場所を選び購入し、山林を自由に開発していった。ゆえにそこは個人の「領地」のようなもので、中でも竹内才次郎邸一帯は同郷者のコミュニティを形成していた。現在もその地に行けばその「境界」を感じさせる塀が残っている。
現在このエリアでは、豊かな自然を残す東山町が緑の保全地区指定地域となっている。東山公園内には、地域住民が手塩にかけて育てた美しい花々が咲き誇っている。このエリアの環境の良さを象徴するかのように。