4月号
浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 ― 義経登場 ―
中右 瑛
須磨寺の夜桜・忠度の辞世の歌「旅宿の花」
一の谷の合戦前夜、須磨寺の境内の桜は今を盛りに咲き乱れていた。平家の総大将・薩摩守忠度は家臣一同と共に、咲き誇る桜下で春の名残のひとときを過ごしていた。翌朝、義経の奇襲に遭い、忠度は壮絶な最期を遂げるのだが、まさかこの花見が最後になるとは思いもしていない。
昔の学生たちは「薩摩守」と洒落て、無賃乗車をしでかしたものだが、そんな風に親しまれてきた忠度は清盛の末弟。文武両道の士として有名である。特に父・忠盛の文才を継いで、歌道に秀でていた。源平の合戦では、一の谷西陣の総大将を務めていた。
美しい夜桜を愛でながら、忠度は和歌を詠じた。
行きくれて
木の下かげを 宿とせば
花やこよひの あるじならまし
「旅宿の花」と題したこの歌が、はからずも辞世の歌となった。桜が咲き乱れる美しくも静かな一夜。翌朝の血みどろの合戦を、誰が想像できたであろうか。
絵(挿図①)は一幅の名作絵巻。
絵師・国芳は源平武士の戦うシーンを数多く描いたが、これほどに穏やかで華麗、情緒的なシーンは少ない。源平浮世絵の傑作である。
あくる早朝、義経の奇襲に遭い、一の谷西陣は総崩れ。忠度は東方に逃走し、駒ケ林あたりにやって来たとき岡部六弥太忠澄と対決。忠度は剛勇ぶりを示したが、六弥太の家来に片腕を切り落とされてしまった。
「しまった!!もはやこれまで!」
彼は観念して自害。壮絶な最期を遂げたといわれる。
忠度は死に直面しても名を明かさなかったが、箙に結んだ「旅宿の花」の自筆歌文で忠度と分かった。歌を愛し続けた武人の美しい逸話である。
都落ちのときにもエピソードがある。
いとまごいに師・藤原俊成を訪ね、歌集一巻を預けて勅撰集に加えられるよう願い、そのうちの「故郷の花」が『千載和歌集』に選ばれたのだが、朝敵となっていたため「詠み人知らず」として収められた。忠度に対する俊成の心配りであった。
絵(挿図②)は、明治幕末の絵師・大蘇芳年の傑作シリーズ「月百姿」の中の一図。腕を斬られた忠度の死にざまをよく捉えている。
芳年は維新戦争の血生臭い戦場をスケッチし続けたというが、殺し、殺され、死んでいく者の情念を怪しく描いている。特有の怪しさが、三島由紀夫や江戸川乱歩ら多くの芳年愛好家の心を揺さぶった。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。