7月号
第十七回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
平安の美男・在原行平、儚い須磨の恋
ときは9世紀後半、平安時代のはじめ、時の帝・光孝天皇(~887年)の怒りに触れた中納言・在原行平(ありわらのゆきひら)は、僻地・須磨に左遷された。この行平とは平城天皇の皇子・阿保親王(あぼしんのう)の皇子で、『伊勢物語』で知られたドン・ファン在原業平の兄である。
行平にとって、都を追われた侘しい生活は耐え難い苦痛で、心の解けぬ毎日を悶々と過ごしていた。
そんなある日のこと、行平が須磨浜の松林を散策していると、二人の汐汲みの姉妹と出会った。行平は美しい姉妹に心惹かれ名を問うたが、二人は答えなかった。折りしも一陣の風と雨に出遭う。行平は風、雨にちなんで、姉を「松風」、妹を「村雨」と名づけた。天下の美男子・行平と美貌の姉妹との出会いに何も起こらぬはずはない。行平はいつしか「松風」「村雨」を恋するようになり、姉妹とて、行平の寂しい境遇に同情し、心を移していった。
この姉妹は、地元・多井畑の庄屋の娘とも、また、讃岐の国、塩飽(しわく)の大領・時国の娘で、継母の讒言により家を追われ、須磨で海女になっていたとも伝えられている。国元を遠く離れた姉妹の寂しい境遇と、都を追われた行平の侘しい心とが、互いに慰め合いとなり、いつしか深い恋に陥っていったのである。
しかし、この恋はそう長くは続かなかった。三年目の秋、帝の怒りが解け、行平は都へ帰らなくてはならぬ時がきた。松風、村雨の悲しむ顔を見るに忍びず、烏帽子と狩衣を松林の枝に残し、行平は一人さびしく須磨を去った。
わくらばに
問う人あらば 須磨の浦に
藻塩たれつつ わぶと答えよ
行平が須磨を偲んで詠んだ歌である。
恋を失った松風、村雨は形見の烏帽子と狩衣を抱いて、都の行平を思い悲しんだが、後には恋の虚しさを悟り、二人は髪をおろし尼になったという。
行平は歌人としても名を成し、前記の歌は『古今集』に収められている。寛平5(893)年に75歳の高齢で薨(みまか)ったと伝えられている。
この須磨での恋の伝説は、行平若かりし頃の恋物語に美化されているが、実説では行平晩年の逸話である。謡曲や歌舞伎『松風村雨』などに劇化され、舞踊劇『汐汲(しおくみ)』でも演じられている。
いま、須磨の景勝地・月見山のほとり、離宮道の傍に「松風・村雨堂」が鎮座し、須磨浜の近くには、松風、村雨の地名が残されている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。