2015年
7月号

西宮の歩みと共に 大屋町について

カテゴリ:西宮

 阪急西宮ガーデンズの西から南西エリアにかけては、静かな邸宅地が広がっている。この中心に位置するのが、大屋町である。大屋は大きな集落を意味し、昭和26年(1951)に誕生した現在の大屋町は、旧上瓦林村の中心地にあたる。
 この一帯は、中世には「瓦林荘」とよばれた荘園であったが、荘園制の崩壊後に、瓦林村・上瓦林村・下瓦林村に分かれた。江戸時代になると、瓦林村は尾張藩家老の領地となり、上瓦林村と下瓦林村は尼崎藩の領地となった。明治22年(1889)、この3つの村に高木村などをあわせて旧瓦木村が発足。旧瓦木村は、昭和17年(1942)に西宮市に編入されるまで、武庫川沿いに存在することになる。
 旧上瓦林村に、片田=潟田、砂田など、砂地に由来する地名が見られるように、一帯はもとは武庫川沿いの砂地で、上質な綿の産地として栄えた土地であった。江戸時代に綿作農家を経営した大庄屋のひとつ・岡本家には、「岡本家文書」なる古文書群が現存している。庄屋の日々の仕事の記録や農業経営簿などが長年にわたって蓄積された「岡本家文書」は、西宮市指定文化財にも指定され、貴重な近世史料となっている。大屋町のはじまりも、この頃に形成された、綿作を業とする集落であったと考えられる。
 また、阪急神戸線沿いの日野神社の境内には、和算の祖と呼ばれる毛利重能の記念碑が建っている。毛利重能は、京都で和算塾を開く傍ら、江戸時代はじめに日本初の数学書「割算書」を発行した人物。同書の巻末に「摂津国武庫郡瓦林の住人、今京都に住、割り算の天下一」と記していることから、毛利重能の活動基盤となった瓦林の周辺では、綿作が盛んであったためか、江戸時代以前から数学を必要とする経済活動があったことを伺い知ることができる。
 明治22年(1889)の旧瓦木村発足から昭和17年(1942)の西宮市編入までに、大字・上瓦林の人口は327から1353人にまで上昇している。人口の増加は、旧瓦木村内の他のどの地域でも同じであった。交通の発達が、この人口増加に大きく寄与していた。大正9年(1920)に阪急電車神戸線が開通し、大字・上瓦林内の高木に西宮北口駅が開通。翌大正10年(1921)、宝塚までの西宝線が開設。大正15年(1926)には今津線まで路線が延伸、阪急今津線が完成した。これにより西宮北口駅は、東西線・南北線が交わる交通の要衝になったのである。
 住宅化が進んだ今、大屋町もかつての光景を想像することは難しくなってしまった。古くから綿作で栄えた旧瓦木村周辺の変遷を経て、今では静かな住宅地として、西宮の歩みを見守り続けている。

今では静かな住宅街を形成する大屋町

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