7月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から86 亀井一成さんのこと
20年ほども昔に購入した本を今頃になって読んでいる。
小説『天の瞳』(灰谷健次郎著・角川文庫)。
著者の灰谷健次郎さんについては、わたしが尊敬する神戸の詩人・評伝作家の足立巻一氏との関連でちょっとした思い出がある。が、そのエピソードはまたの機会に譲ろう。
この本も入院中(前の前立腺がんとは別の疾病)に読んでいたのだが、「ほほう!」と思う場面があった。「亀山一夫」という人が登場する。
《亀山さんはチンパンジーの人工飼育を成功させた人として日本的に有名なひと》。
これは間違いなく、王子動物園の飼育技師だった亀井一成さんがモデルだ。
生前には、テレビやラジオなどで活躍しながら、本誌『KOBECCO』にも「動物園飼育日記」「亀井一成のズーム・イン・ZOO」などの連載記事を長く書いておられた。
亀井さんには何度かお会いし、うちの店にもご来店下さったことがある。サイン本が何冊か「喫茶・輪」の書棚にあり、王子動物園のイラスト入りタオルハンカチにもサインをして下さっている。
氏のサインはチンパンジーのイラストが添えられることが多いのだが、これにはない。その理由をこうおっしゃった。
「猿(チンパンジー)の絵は“去る”に通じるのでお店さんには描きません」と。亀井さんの心配りなのだ。
『天の瞳』だが、亀井さんのことが感動的な文章で詳しく紹介されている。こんな場面がある。
《その日「なんでも学校」で亀山さんはいった。
「ぼくは動物が専門や。が、それだけではおもしろくないので、きょうは海の話、魚の話をします」
(略)
「亀山さんが、海も好きやったというのは、はじめてきいたなァ。動物のこと以外は、なんにも関心がない人が亀山さんやと、誰でも思うもんナ」》
え?そうなのか。わたしも動物オンリーの人だと思っていた。小説とはいえ本当なのだろう。お亡くなりになってから久しいのに今ごろになって知るとは!
亀井さんに初めてお会いしたのは昭和58年のこと。その時に作った詩がある。神戸新聞の詩の欄に投稿したもの。まだ初心者だったので恥ずかしいのだが。
「チンパンジー」
閉園前の王子動物園
チンパンジーの檻の前
ガラスに投げつけられたチンパンジーのうんこ
を洗っておられる亀井一成さんに会った。
「何でうんこを投げるん?」と長男が聞く。
「人間が、石やなんかを投げるから物を投げ返すようになって、初めはバナナの皮なんかを投げてたんやけど、チンパンジーは賢いから、頭がいいから、人間の反応をよう見とって、うんこを投げると人間が『キャーッ』とか言って大騒ぎするから、嫌がるから、うんこを投げるようになってん。うんこを道具にしよるんや。今ではもう、真っ先にうんこを投げよる」
時に厳しい眼、淋しい眼を交えながら、亀井さんはやさしく答えて下さいました。
これに対する足立巻一氏の選評。
《(略)悲しい話である。どうして人間は動物たちを心なくいじめるのか。亀井さんの哀しい目の色が見える。》
そんなことがあってほどなく、亀井さんの講演会が「喫茶・輪」の隣の小学校であるのを新聞で知った。
そこで先の詩の新聞記事のコピーを同封して、「時間があったらお立ち寄り下さい」と手紙を出した。すると氏は、会場へ行く前にやってきてくださった。
たまたまお客さんの少ない時間帯で、贅沢にも妻とわたしの二人占めで動物談議を聞かせて頂いたのだった。腕をまくり上げて動物にかまれた傷跡を見せたりしながら。
気づけば時間が迫っており、あわてて店を後にし、学校の塀沿いの道を手を振りながら走って行かれた後ろ姿を今も忘れない。
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。