7月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉗中編 鬼塚喜八郎
鬼塚喜八郎
神戸から世界へ羽ばたいた靴作りの夢
神戸生まれの〝タイガー〟
鬼塚株式会社の創業から73年…。バスケットボール専門のシューズ作りから始めた、神戸市に本社を構えるアシックスは、昨年の東京五輪・パラリンピックでは日本選手団のユニフォームの製作を手掛けた。それだけではない。世界のメダリストたちがアシックスの競技用シューズやウェアなどを使用していた。鬼塚喜八郎が興した神戸の小さなシューズメーカーは、世界を代表するスポーツメーカーへと大躍進を遂げた。
アシックスブランドは世界を席捲。五輪など国際競技の他、野球、サッカーなどさまざまな競技でプロ、アマのトップアスリートたちが愛用。アスリートだけでなく、ファッション性を求める世界の若者たちにとってもアシックスは憧れのブランドメーカーへと成長した。
代表するブランドが「オニツカタイガー」。喜八郎が創業当時に考えたネーミングで、虎印のロゴも彼が考案したものだ。
「スポーツシューズにふさわしく、強さと俊敏性を…」。そこで喜八郎がイメージしたのが〝トラ〟だった。
現在も、アシックスのシューズには「ONITSUKA TIGER」のロゴが刻まれている。
今や「オニツカタイガー」の名と、このロゴを世界で知らない者はいないほどの人気ブランドとなったが、1952年のロゴを見ると、「ONITSUKA TIGER KOBE」の文字が…。このブランドが、神戸で発祥したという事実を知っているアスリートは、現在、世界にどれだけいるだろうか?
世界照準
昨年の東京五輪を遡ること65年前。
創業7年目。まだ、ほとんど誰もその名を知らない小さなメーカーだった鬼塚株式会社は1956年、メルボルン五輪で、日本選手団の選手用のトレーニングシューズとレスリングシューズを提供している。
「レスリング日本代表の八田一朗監督の熱意にほだされて開発した」というこのレスリングシューズを履き、フェザー級の笠原正三選手が金メダルを獲得している。
「これがオニツカタイガーにとって初の金メダルになったのです…」
喜八郎の世界進出の伝説は、こうして始まった。
自伝「念じ、祈り、貫く」の中で、彼が悪戦苦闘し、試行錯誤を繰り返しながら、まだ誰も作ったことのない〝未踏の領域〟のシューズ作りに挑み、日本のスポーツ界を支えるために奮闘した経緯が明かされている。
日本選手全員が履くトレーニングシューズはともかく、特殊なレスリングシューズは、「採算のとれるものではなかった」と吐露しているが、喜八郎にとって、そんなことはどうでもよかったのだ。
日本レスリング界の礎を築いた八田の悲願達成のために協力できるなら…と。
喜八郎が目指したシューズは、このときから〝世界照準〟だった。
鬼塚の快進撃は、こうして幕を開けた。
初の金メダル獲得で、シューズ開発に自信を持った喜八郎は次の1960年のローマ五輪ではレスリングに加え、体操選手用のシューズも開発。男子体操チームが団体総合で金メダルを獲得するなど〝体操ニッポン〟を世界にアピールし、そのシューズを鬼塚が手掛けたことが話題を集めた。
目標は五輪
喜八郎が、文字通り裸一貫、神戸で興した日本の零細シューズメーカーが、どうやってインターナショナルブランドへと成長を遂げていったのか。なぜ、彼はそれを成し遂げることができたのか。
「念じ、祈り、貫く」の中で、喜八郎はそのヒントについてこう明かしている。
「やはり『山椒は小粒でピリリと辛い』というところに尽きるでしょう。大手メーカーの真似をせず、ひと工夫、ふた工夫して独自の味を出していくしか、零細企業や中小企業の生き残る道はないと言い切っていいと思っています」
スポーツシューズの開発で、世界に後れをとる日本の中で、さらに後発メーカーだったオニツカが、どう世界進出していくかを喜八郎は創業以来、毎日、必死で考え抜いた。
「オニツカが国際化するためには…。まず、オリンピックとどう関わっていくかだ…」
喜八郎はその突破口を見つけ、こう決意するが、欧米中心の五輪運営の前に、またしても彼の前に大きな壁が立ちはだかるのだった…。
=続く。
(戸津井康之)