11月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑦白洲次郎前編
名誉・功績を墓場まで持っていった白洲次郎の理念
政治と自動車への情熱
「葬式無用、戒名不用」。たった二行の遺言を記し、白洲次郎(1902~1985年)は83歳で亡くなった。この遺言通り、兵庫県三田市にある彼の墓碑に戒名はなく、妻の正子の考えで、不動明王を表す梵字のみが刻まれている。遺言同様、彼は生前も自分の名を残すことに執着しなかった。残された資料は少なく、彼に関する書籍が発刊され始めたのは、ここ20年程前からだ。決して目立たず、時の権力の影で人知れず日本を支え続けた彼の生き様が今、改めて注目される理由は何なのか。その真意を探ってみたい。
近年の白洲人気から見れば意外だが、生前、彼の名が語られる機会は少なかったという。
死後、ドキュメンタリー番組などで彼の功績が取りあげられ、2008年、宝塚歌劇が「黎明の風」というタイトルで彼の生涯を舞台化。翌年、NHKドラマ「白洲次郎」が放送されるなどし、その稀有な生き様が注目される。今年2月には、吉田茂元首相を主人公にしたドラマ「アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~」(テレ東)が放送されたが、吉田を支えた白洲の存在の大きさが、ドラマチックに印象深く描かれていた。
遺言からも分かるが、名声などへの執着心は皆無で、「資料は墓場まで持っていく」と言いながら、たまった資料を焼却する姿をよく見かけた、と家族や関係者は語っている。
では、なぜ急に白洲次郎という存在がクローズアップされ始めたのか。
注目されるきっかけとなったのは、彼が亡くなってから2年後、1987年から月刊自動車誌「NAVI(ナビ)」で始まった連載「日本国憲法とベントレー」(後に「白洲次郎の日本国憲法 隠された昭和史の巨人」として書籍が刊行)だといわれている。
彼は若い頃から無類の自動車好きだった。晩年、トヨタの初代ソアラに乗り、2代目ソアラ開発の際、アドバイザーとして関わった。初代ソアラがデビューした81年、開発責任者の岡田稔弘が白洲から手紙を受け取っている。連載には、そのエピソードが紹介されている。
当時のトヨタ社長、豊田章一郎から呼び出された岡田は、「ソアラに文句を言っているおじいさんがいるから話を聞いてこい」と言われる。この〝おじいさん〟が、当時、大沢商会会長だった白洲だ。
戦後、吉田茂首相の側近として、GHQと交渉し、日本が民主国家として歩み始める礎を築いた立役者の一人が白洲だが、当時、その名を知る者は多くなかったという。岡田もまた、「白洲を知らなかった」といい、食事に誘われた後、彼から手紙が届く。
ソアラの技術的な改良点がびっしりと記された文面を見て岡田は衝撃を受けた。
以来、二人の〝子弟関係〟は続いた。白洲からは2代目ソアラへの注文もあった。
〈新しく設計し、そして作るのであれば、〝ノー・サブスティチュート〟。つまり、かけがえのないクルマだよ〉
この言葉を受け、岡田は唯一無二の新型ソアラを開発することになるのだ。
生きる原動力としての好奇心
85年11月、2代目ソアラが発売される3カ月前に白洲は亡くなった。生前、白洲は岡田に「2代目が出たら買うよ」と言っていた。妻の正子がこの約束を守り、2代目ソアラを購入した。彼女は免許を持っていなかったのだが…。
2010年、「NAVI」が休刊を発表した。老舗自動車誌の事実上の廃刊は衝撃だった。当時、新聞社の東京文化部記者だった筆者はNAVIの読者でもあり、すぐに編集部を取材した。「読者層の高齢化。若者の自動車離れは止めようもありません」と同誌を発行する二玄社は休刊の理由を語った。
白洲は現兵庫県立神戸高校から英国のケンブリッジ大に進学。留学時代にブガッティやベントレーなど外車数台を所有していた。大正時代、そんな日本人学生がいただろうか。自動車に造詣の深かった彼は、その後もランチアやポルシェなど現在、自動車博物館に展示されているような名車ばかりを乗り継いできた。NAVIは白洲を通じ、車と政治を絡めた昭和史の連載を試みた。そんなチャレンジ精神旺盛な自動車誌を社会は必要としなくなったのだろうか―と取材していて寂しさを覚えたことを思い出す。
「若者の多くが車への興味、関心を失ってしまった。運転免許を持たない若者も増えていますから…」。白洲を通じ、自動車の魅力を伝えたNAVIは、その役割を終えたかのように幕を閉じた。
マッカーサーと真正面から交渉したタフ・ネゴシエーター(屈強な交渉人)は好奇心旺盛で、車に対しても並々ならぬ情熱を注いでいた。政治や車への無関心層が増えている現代日本人の冷めた姿を、天国にいる白洲はどんな思いで見ているだろうか。
(後編へ続く)
戸津井康之