7月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~③横溝正史前編
事実を知りすぎた作家、横溝正史が見た世界
神戸ゆかりの作家は少なくないが、日本ミステリー界を代表する小説家として横溝正史(1902~1981年)の名を挙げないわけにはいかないだろう。神戸で生まれ、神戸市内で家業の薬局を継いだ後に、作家として活躍するが、彼が作品を生み出す源泉はどこから来ていたのか。そのアイデアの多くは、もちろん故郷・神戸から得ていたが、着想の重要なカギは〝岡山〟に隠されていた。そのカギを紐解いてみたい。
疎開先での猟奇事件
「祟りじゃあ、八つ墓村の祟りじゃあ…」
脅えた老婆の尼の叫び声が響く。1977年に公開された映画「八つ墓村」のテレビコマーシャルは衝撃的だった。
探偵、金田一耕助を俳優の渥美清が演じ、監督は野村芳太郎、脚本は橋本忍という名手が手掛け、大ヒット。その影響で角川文庫の原作本も売れた。
何度も映画化やドラマ化されてきた「八つ墓村」は、横溝のロングセラー小説の代表作の一つだ。
1902年、横溝は現在の神戸市中央区で生まれた。大阪薬学専門学校(現大阪大学薬学部)卒業後、薬剤師として神戸市内で家業の薬局を継ぐが、ミステリー作家、江戸川乱歩の勧めで上京。出版社に勤めながら、創作活動に取り組み、32年、作家として独立する。
彼は第二次世界大戦中の一時期、親類を頼って東京から岡山県倉敷市へ疎開している。
彼の独特の作風とミステリーのアイデアの根底には、岡山で過ごしたこの疎開体験が大きく影響しているといわれる。
筆者が新聞記者となって初めて赴任したのが岡山の支局だった。「この場所も横溝ミステリーの原点だったのか…」。岡山で取材を続ける中で、身を持ってこう実感する瞬間が何度もあった。
金田一が初めて登場した「本陣殺人事件」、「獄門島」、そして「八つ墓村」…。彼の作品には岡山を舞台にした傑作が多い。
トリックの斬新さもさることながら、いずれも作品の根底には、田舎に残る因習や家系にまつわる怨念など、地方の歴史に秘められた影の部分が深く描かれてきた。これこそが横溝作品の最大の個性であり、この最強の〝武器〟を、彼は岡山の疎開経験の中でいくつも手に入れ、磨きあげていたのだと知った。
事実は小説より奇なり
暗闇の中、火のついたろうそくを頭に巻きつけた男が凶器を手に村人を追い回す…。
当時、多くの人々がTVCMに恐怖を抱き、映画館で震えた「八つ墓村」。小学生の頃、筆者は「よくできたホラー映画だ」と思っていたが、その後、小説を読んで違和感を覚えた。横溝が描いた詳細な人物造形、克明な土地にまつわる歴史や風景描写。このミステリーはどこまでがフィクションなのだろうか?
新人記者は〝サツ回り〟から始める。警察署などを回って事件や事故を取材するのだ。
筆者が着任早々、県北の津山市で殺人事件が発生した。原稿を渡すと倉敷出身のベテランデスクが岡山弁でつぶやいた。「この土地は定期的におどろおどろしい猟奇的な事件ばあ(ばかり)繰り返すのう…」
デスクに聞くと、「ここは津山事件が起きた場所じゃが」と教えてくれた。
38年、津山市で、村人30人が殺害される日本犯罪史上最悪といわれる津山事件が起きた。以来、別名「津山三十人殺し」は、地元で代々語り継がれていた。
岡山に赴任当初、「変わった地名だな」と、なぜかその響きがずっと気になっていた村があった。
県北にあるかつての津山藩の領地「八束村」だ。横溝が岡山へ疎開していたのは45年から3年。この間、彼は徹底的に「津山三十人殺し」を調べたことだろう。そして49年、傑作「八つ墓村」は発表された。
現在、真庭市となり、八束村の名称は消えたが、今後、「八つ墓村」が映画化やドラマ化されるたびに地元の人々はこの村の名を思い浮かべるだろう。
横溝は岡山での疎開中に、ミステリー作家としての将来に自信を深めたと想像できる。
岡山赴任中、筆者は数々の猟奇事件を取材した。その度に、過去、その土地で起きていた事件との類似性を知り愕然とした。そして、これら事件史に重ね合わせながら何度も横溝作品を読み返した。
「事実は小説より奇なり」。英詩人、バイロンはこんな名言を残したが、横溝は、おそらく、多くの人が、これは事実とは信じ難い、信じたくない、と思うような数々の事件を疎開中に知り、夢中で調べたに違いない。
「八つ墓村」以外にも、横溝作品には、「これは果たしてフィクションなのか?」と思わせる物語が少なくない。
「またしても横溝が描いた怨念の事件が蘇った…」。岡山でのサツ回り中、筆者は戦慄した。
=後編へ続く。
戸津井康之