9月号
WHAT IS IT? Vol.4 「油断できない」
文/永吉一郎
1995年、時代はインターネットに向かってジワリと動いていました。ここ神戸で初のアクセスポイントができたのもその年です。巷ではWindows95というネットワーク対応OSが爆発的なヒットとなり、マイクロソフトは世界のパーソナルコンピューターを支配しつつありました。が、その陰でサメザメと泣いている人達がいました。いわゆるアップルユーザーです。
アップルコンピューター(現・アップル)は二人のスティーブ、スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズによって1977年に設立されました。二人は同年ApppleIIという世界初の個人向けコンピューター、いわゆるパソコンを大ヒットさせ巨万の富を得ます。しかし巨人IBMが1981年、同様にパソコンを発表し、事実上の世界標準となります。その頃、ジョブズは次世代モデルとしてMacintosh、いわゆるマックの開発をスタートさせますがこの頃よりアップルは迷走をはじめ、まずウォズニアックが退社。その後ジョブズがペプシコ社より迎え入れたジョン・スカリーに解雇されてしまいます。アップル社はその後も迷走を続け業績は大幅に悪化。しかしアップル製品をこよなく愛するマックユーザーたちはマックシリーズを使い続けました。マックには他社コンピューターにはない強烈なコンセプトがありました。いわゆる隅々までこだわった美しいデザイン。アウトラインプリンターの開発やDTPソフトとの組み合わせでグラフィックデザインの世界を変えてしまった新規性。しかしそれでもマイクロソフトの包囲網の前に風前の灯と化していた1997年、当時のアップルコンピューター社長であるギル・アメリオがジョブズに復帰を打診、ジョブズは電撃的な復帰を果たします。ジョブズが復帰して最初に行ったのはなんと宿敵マイクロソフトとの提携でした。事実上世界中で標準ソフトと化したマイクロソフトのOfficeをアップルのMacintoshに最適化する事、Windows版とMac版を同時にリリースする事、更には1億5千万ドル以上とも言われるマイクロソフトからの出資を受け入れる事。世界中のマックユーザーはその発表に唖然としましたが、考えてみればスティーブ・ジョブズとマイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツは1970年代からの顔見知りで良きライバルでもあった訳です。その友情と勇気に拍手を送った人は少なくありませんでした。
その後ジョブズは60近くあった製品ラインを3モデルに絞り、更に翌年1998年、コンピューター業界の常識を覆す製品を発表します。中身が透けて見える鮮やかなブルーの筐体、USBインターフェイスしか持たず、すべてはソフト制御。この美しく簡単操作な製品はiMacと呼ばれ、その後長きにわたってアップルに大きな利益をもたらします。
2001年には大容量のハードディスク内蔵型音楽プレーヤー、iPodを発売します。最初は高値で売れませんでしたが後に音楽業界の在り方を変えてしまうダウンロードミュージック用ソフトiTuneが無償で提供されることでiPodは爆発的ヒットとなりました。
そしていよいよ2007年1月、後に伝説とまで言われたジョブズのプレゼンが行われます。
「本日アップルは3つの画期的な新製品を発表する。一つは音楽プレーヤー、もう一つはインターネット端末。そして最後の一つは高機能携帯電話だ。」実はそれらの機能がたった一つの製品で実現されていると明かし、世界から熱狂で迎えられた新製品iPhoneは爆発的なヒットとなると同時にスマートフォンと言う新たなジャンルを開拓するに至りました。2011年8月にはアップルは時価総額世界一企業となります。
そして10月5日ジョブズは癌で死去。56歳でした。オバマ大統領は談話を発表。「世界は偉大な先見の明を持った人物を失いました。彼の作ったデバイスによって世界中の多くの人々が訃報を知ったという事実以上に偉大な賛辞はありません。」
株式会社神戸デジタル・ラボ(KDL)
代表取締役社長
永吉 一郎
1962年神戸生。広島大学卒業後京セラに入社、光学機器の開発に従事。国内外工場の量産立上げを経験。1991年父親の病死に伴い神戸に戻り日宣通の社長に就任。1995年阪神淡路大震災の経験を元にWEBシステム開発の神戸デジタル・ラボを設立、現在に至る。ICT推進協議会副会長、神戸市政策提言委員など歴任。