8月号
追悼 田辺聖子 さん ② 神戸の女性たち
神戸の女流は多士済々、どうもホカの町より、人材が多い気がする。こんなにノビノビと、女の子が仕事をしている町はない。その点でも、神戸はユニークな風土で私が東京や大阪で自慢している点である。
「まあ、こんなに女の子が活躍できる、というのは、男がえらいさかいやろ」とカモカのおっちゃんは、いっている。
「男は了簡せまく、気が小そうて、古いアタマやったら、女の子が出ようとすると、モグラ叩きみたいにコツン、とやるやろ。しかし神戸の男はよーしよし、やりなはれ、とあと押しする。男がえらいのや」ということである。
私もちょっぴり、そのあとについて神戸の男の讃美をするとすれば、それは、男が、自分に自信があるからである。自信がなかったら、女の活躍をそねんだり、足を引っぱったりするであろう。 そういって神戸の男性の一人にホメたら
「いや、そんな。自信なんて。ただもう、女の人の活躍がまぶしいばかりで」
と怖ろしそうにいっていた。しかしこの点に関しては「マカン・ブッサール」の会員の一人、Hさんも
「たしかに、男の人がやさしいようで、女も仕事しやすいんです」と証言していたから、まちがいなかろう。 そうだ、編集部にたのまれていたのは、神戸の女性をホメることだった。しかし私の持論では、女をよくするのは男、男をよくするのは女、だから、双方、切っても切れぬつながりがある。
ところで、この「マカン・ブッサール」だが、べつにこの会員だけが神戸の女性というわけではないが、たいそう象徴的な存在だから、例に引かせてもらうと、美しきハイ・ミスの仕事もちが集まって、文字通り「おいしいもんをたべる会」を作っている。それが機縁になって、互いの仕事をたすけ合って、充実した成果をあげるようになっている。舞踊家もおればエディター、演出家、ディザイナー、女性実業家、などととりどりである。さまざまな仕事にいそしみながら、チームワークがとれていて、たとえば、モダンダンスのIさんがリサイタルを開くと、演出家のOさんが構成を考えるとか、ディザイナーのHさんが衣装を担当すれば、エディーターのKさんが企画宣伝を引きうける、といった具合、これがHさんのファッションショーでも、同じようにみんなで応援するという仕組み、その彼女らの応援を、私も及ばずながら、またうしろから応援している、というところである。
日舞のYさんだとか、古典バレーのMさんだとか、会員にはすばらしい女流がいるのだが、会員外にも、タレントのN子さん、シャンソンのI子さん、それに書道のMさん、…とこうかぞえてくると、(まだまだすばらしい女流は神戸にいっぱい)女が住みやすい、仕事しやすいところが神戸にはあるのかしら。そういう点でススンだ街に、ぜひ、してほしいと思う。それこそ二十一世紀の未来の街の条件なのだから。
「マカン・ブッサール」はハイ・ミスのあつまりなので、「マカン・ブッサール」の応援団長をもって任じているカモカのおっちゃんは、気になってならないようである。同じく「マカン・ブッサール」の名誉顧問のつもりでいるTさんに
「○子ちゃん、くどいてもええか?」といちいち訊き、Tさんは気むずかしく、
「いや、あの子はあかん。神戸の男性のアイドルやから」
「ほな、×子ちゃんは?」
「あれもあかん。神戸の男性の希望の光や」
「△子ちゃんはどないや」
「あれもあかん。神戸の男性のマドンナや」
「ほな、会員外の××ちゃんは?」
「あれは国宝。祀っとくもんで、くどくもんちゃう」
などといって、結局、みなダメで、カモカのおっちゃんも邪心をおこさず、女性の地位向上のためにひたすら応援する、ということにおちついたようである。
しかし、それぞれの分野で仕事の幅を少しずつひろげ、人生と青春を充実させつつある神戸の女性たちは、神戸が誇りにしてもいいものの一つだと思う。友情とチームワークに支えられて、みな、その場その場で、けんめいに仕事にうちこんでいる。「男の人がやさしいから、仕事できるんです」という彼女らのけなげさ、まあ、幸せな世の中というのは、全くもう、男と女が応援し合うほかにはないのでしてね。それと、女の子がコツコツと、仕事の業績を通して、自分の存在を主張することに尽きるのだ。
しかしそれにしても、みんな、よく食べはるなあ。彼女ら女流の食欲もまた、いずれおとらず、ノビノビとさかんなものであって、それも男性方には、まぶしいばかりであろう。
1979年3月号掲載