4月号
甲南学園 100周年|阪神間モダニズム の申し子 旧制甲南高等学校
平生釟三郎先生の教育理念をもって開学し、現在の甲南高校・大学の礎を築いた旧制甲南高等学校。福井俊郎さんは戦後の学制改革で高等科を卒業できずに、1学年で修了することになった。しかし、たくさんの思い出と、母校への誇りを持っている。
子ども心にも感じた、自由な雰囲気
―旧制高等学校とは。
明治27年に公布された高等学校令により、小学校6年、中学校5年を卒業後、大学を目指すものは、厳しい入学試験を受け、高等学校へ進学していました。官立高等学校が7校あり、ほぼ全員が官立大学に進むことができました。大正7年に新しい高等学校令が公布され、尋常科4年、高等科3年の7年制とし、公・私立の高等学校設置も認められました。7年制を採択して新設された四つの私立高等学校の一つが甲南高等学校です。
―福井さんが入学されたのは?
昭和19年、終戦の前の年に尋常科に入学しました。戦後の学制改革によって6・3・3・4制になり、甲南も新制中学校・高等学校が開校し、私たちの学年は新制大学へ進むために高等科1学年で修了しました。そして昭和25年、旧制甲南高等学校は27年間の歴史の幕を閉じました。
―なぜ、甲南を選ばれたのですか。
私の父は、現在の川西市で園芸業を営んでおり、戦前はそれなりに裕福でしたが、戦争中は世の中が園芸どころではなくなり苦労しました。しかし父は教育熱心で、兄は旧制浪速高等学校から京都大学に進み、私にも大学までは行かそうと考えていたようです。私は川西小学校から県立伊丹中学に進むはずだったのですが、6年生の2月ごろになって担任から「神戸に甲南高等学校といういい学校がある。入試の時期が早いから運だめしに受けてみてはどうか」と勧められました。
―そして、合格したのですね。
合格したのは良かったのですが、3.5倍の競争率で阪神間の立派な小学校の優等生ばかり、その上、みんなお洒落で大人っぽくて、田舎からひょっこりやって来た私など、いろいろとからかわれました。でも私は腕力には自信がありましたから、いじめられっ子にはならなかった(笑)。
―いわゆるカルチャーショックですね。
当時、世の中は忠君愛国一色、特に私は田舎の小学校でピリピリとした雰囲気の中で育ちました。ところが甲南に来てみると全然違う。現在の大学の場所で、正門からカーブした上り坂に大きな木が茂り、見たこともないような世界で子ども心にも自由があると感じました。阪神間の明るくて気候の良い土地に平生先生が越して来られたのが甲南とのご縁の始まり。土地柄は大きく影響しています。甲南は阪神間モダニズムの申し子といえるでしょうね。
徳育、体育、そして知育。
勉強では競争しない
―入学してからはどんな学生生活だったのですか。
甲南の教育方針は人格の修養と健康の増進を第一とし、個性を尊重して天賦の才能を啓発する意味においての知育を施すこと。「徳育、体育、知育」という順番です。平生先生は武士道を重んじ、正直真っ当な人間になることを第一としました。しかも青白い秀才はだめ、体力をつけることを実践されましたから、全国で最も小規模な高等学校ながら運動部のレベルは高く、インターハイではラグビー、バスケ、陸上競技、テニスなどでは優勝の常連校でした。私も戦後はラグビーを一生懸命やりました。大島純義さんをふくめて、京都大学に進んでラグビー部で活躍された先輩方がたくさんおられます。
―知育、つまり勉強は3番目?
これは驚きでしょうね。私も入学してすぐ、甲南では自分の成績を向上させればいいだけで、友達と競争して順位を上げることを勉強の目的にしてはいけないと諭されました。平生先生は「試験は無理やり勉強させるためではなく、生徒一人一人がどの程度のレベルに達しているかを判定するために使うもの」とし、席次が公開されることはありませんでした。他の高等学校では公開されて席次順に並ばされたりしていたようです。そんなことも大学に入って初めて知りました。
―自己管理が必要ということですね。
自分の好きなことをやればいいが、自分で努力しなくてはいけない。ですから怠けていると進級できず、落第も多くて7年間のはずが13年間通った生徒もいたそうです。ところがそれを誰も恥ずかしいとも捉えず、「友達がたくさんできて良かった」と(笑)。みんなおおらかでしたね。
―福井さんも好きなことをやっておられたのですか。
私は飛行機が大好きで小学生のころから模型飛行機をいっぱい作って、将来は戦闘機のパイロットになりたいと思っていました。甲南でも入学してすぐに航空部に入り、プライマリーという入門者用のグライダーで飛んでいました。楽しかったですよ。ところが終戦を迎えグライダーどころか、模型飛行機を作ることも許されなくなり、部屋中にあった模型飛行機を全部庭に持ち出し、泣く泣く燃やしました。悔しい思いでした。
―平生先生は日本が軍国主義に走ることを危惧されていたそうですが、学内にもそういう雰囲気はあったのですか。
積極的に反戦活動をすることはなかったようですが、軍隊は嫌いだ、戦争は嫌だ、戦争に向かう全体主義には反抗するという雰囲気がありました。教練の時間に配属将校から「ここのところ日本軍の情勢が芳しくないのはなぜか?」と質問され、ある生徒が「それは陸軍が悪いからです」と本音で答えてしまい、「我々の努力が足りない」などという答えを期待していた将校を烈火のごとく怒らせたそうです。
それでも実際には在学中に徴兵され亡くなられた先輩方もたくさんおられます。
―福井さんは甲南高校を修了後、大阪大学に進まれたのですね。
ラグビー部の先輩が多い京都大学に行きたかったのですが、戦後は家が経済的に大変でしたから、通える範囲で阪大に行くことにしました。先輩から「どこの高校から来た?」と聞かれて「甲南です」と答えると、「オーそうか!」と言われて、勉学もスポーツも精神的にも優秀な甲南卒業生たちが活躍しているんだなと誇りに思いました。
伝統を引き継ぎ、良いところを伸ばしていってほしい
―旧制甲南高校同窓会の幹事長を引き受けられたのは?
私はあまり同窓会活動には熱心ではなかったのですが、5年ほど前、体調を崩した友人から引き継ぐことになりました。頼まれたら嫌とは言えない、やるからにはとことんやるという性分でして、甲南歌唱祭でも一番前で旗を振っていたわけです(笑)。
―平成29年に同窓会を解散したのはなぜ?
先輩は90歳を超えた方も多く、体調を崩されたりして会員数が200人を切る状況でした。なし崩し的に消滅というのではなく、きちんと宣言して終わらせたいと考えました。同窓会として積み立ててきた資金で旧制甲南高等学校記念事業をしようと提案し、一部を給付型奨学金として高校と大学に寄贈しました。記念のモニュメントを残したいと、高校の校庭に銅像を寄贈しました。高等科の生徒が立って大空を指さし、その横で尋常科の生徒が座っている姿です。旧制高等学校というと破れた帽子に下駄ばきのイメージですが、平生先生は「紳士たれ」というお考えでしたから、甲南はちょっと違いました。校内では下駄ばき禁止。銅像も黒革の短靴をはいています。昨年には、私たちが育った現在大学の岡本キャンパスへも旧制甲南高校生の銅像を寄贈しました。
―現在の甲南、今後の甲南へ、メッセージをお願いします。
大学や高校の同窓会の皆さんから「旧制あってこその甲南」としばしば言われます。中途半端なことはできないな、出来るだけお手伝いをしようと思うようになりました。すべての旧制高等学校が姿を消し、また形を変えてしまいました。そんな中、甲南学園では私たちの伝統を引き継ぎ、良いところを伸ばし100周年という記念の年を迎えました。頼もしく、また嬉しく思っています。良いところをさらに伸ばし、次の時代へと向かっていってください。
元旧制甲南高等学校同窓会 幹事長
福井 俊郎(ふくい としお) さん
昭和6年 兵庫県に誕生。昭和24年 旧制甲南高等学校高等科1学年を修了。昭和33年 大阪大学大学院理学研究科博士課程を修了(理学博士)。米国パデュー大学訪問助教授を経て、昭和42年大阪大学産業科学研究所教授、平成元年より4年間 所長、平成7年 大阪大学名誉教授。専門は生化学、酵素科学