3月号
浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 ― 義経登場 ―
中右 瑛
義経・一の谷奇襲攻撃の勝利
世にいう一の谷合戦は、神戸全域にわたった合戦の総称。戦場は福原を中心に東は生田の森、西は一の谷まで広がった。平家・東の陣、つまり生田の森には、源頼範を大将とする源氏の軍勢、西の一の谷には義経軍が攻め入った。
寿永三年(1184)二月七日、鷲尾三郎に先導された義経軍は、一の谷の裏山に着いたものの、余りにも急な斜面を見て一同たじろいだ。しかし鹿も通ると聞いて「馬も四足、やれぬことはない」と、“一の谷の逆落とし”といわれる奇襲作戦を敢行した。
平家側では、一の谷陣の裏山は屏風を立てたような天然の要塞で、背後からせめてこようとは、想像もしなかった。天から軍馬が降ってくるような義経軍の攻撃に、平家の軍勢はひとたまりもなかった。
奇襲に遭いもろくも散った平家の武将たち。平通盛、忠度、経俊、敦盛、知章ら、多くが戦死。なかでも清盛の弟で歌人としても名高い忠度の壮絶な戦死。平家の公達・敦盛と一番乗りの源氏方の熊谷直実との運命的な対決。知盛の子・知章が父の身代わりとなって惨殺されるエピソードなどなど、各武将たちの壮絶な最期は美しくも悲しい。命拾いした武士たちは四国・屋島へと逃れた。
義経は、この奇襲戦法の勝利で、戦術家、智謀の将として、全国に知れ渡った。
左図は、山上から平家軍勢が立て籠もる砦(城)めがけて急坂を駆け下りる義経の軍馬(右端の白馬)が描かれ、遠方の海には平家軍船が見え、須磨海岸の砂浜には一番乗りの熊谷次郎直実が沖合の平家の若武者・敦盛を扇で「返せ!返せ!」と勇み立つ軍馬(中央の黒馬)が見える。
このワイドシーンには様々な対決図が盛りだくさんに描かれている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。