7月号
私の関学青春時代
125
関西学院
1889-2014
明るい未来を信じて
新 尚一(あたらし しょういち)
神栄株式会社 相談役
1964年・商学部卒
昭和29年(1954)4月1日、前日の雨も上がり、甲山を背にした時計台の見える正門の満開の桜をくぐり、新中学生が母親とともに集まってきた。関西学院中学部の入学式の日である。
思いがけず入試に合格し、期待に胸ふくらませて輝かしい世界に大きな一歩を踏み出した興奮は、今もはっきりと思い出す。
それから10年間、男子ばかりの学院で思い切り遊んだ。学業も決して楽はさせてくれなかったと思うが、小学校とは違い担当教科ごとに先生が変わることが珍しく、また先生もそれぞれに個性があり、独特の教え方で学問の楽しさを知ることが出来た。
学校の行事でのキャンプ生活、友達と夜中じゅう話し合ったこと、図書館で好きな本を読みふけったこと、中央芝生で青空に浮かぶ雲を眺め、人生を考えたりと、気ままで楽しい学生生活であった。
しかし世の中は戦後復興が軌道に乗り始めたとは言え、一般的にはまだ貧しく贅沢ができる時代ではなかったが、心はいつも明るく前向きで将来への夢をもち、友人といつも熱く語り合っていたことを思い出す。
関学での多感な青春時代の10年間は上ケ原にあり、青春の出来事を振り返ると、記憶の襞に隠れていた出来事が改めて新鮮に甦り、愉しかったことばかりが出てくる。朝の矢内コースマラソン、チャペルでの礼拝、クリスマスキャロル、個性あふれた先生の授業、陸上、剣道、アメリカンフットボールなどのクラブ活動や合宿、友人との遊びと語らいなど、それだけでなく、絵画や詩文の楽しみを教わり、また物理や化学への興味からいつも満点を取ることが出来たのも、魅力あふれる先生が多かったことによる。
一粒の麦が地に落ち芽を出し実をつける。そのために必要な栄養がこの関学での青春時代であったと思う。まさに青春を謳歌することができた時代があり、明るい未来を信じて前を向いて歩くことを学べたのが、その後の人生形成に大きな影響があったと感謝し、この幸せを大事にしたいと思う。
関西学院と多くの友人たちに感謝
塚本 哲夫(つかもと てつお)
六甲バター株式会社 代表取締役社長
1964年・商学部卒
関西学院高等部に入学したのは57年前のことでした。高校3年、大学4年の計7年間は、今の私の年齢の一割にもならないのに、思い出は心の中に鮮明に残っています。坊主頭を長髪にしたのはその頃ですが、今では頭髪も残り少なく淋しくなりました。
高等部では、男声合唱のグリークラブに入りました。その時、自分には音楽の素質がないことは、よく分かりました。しかし、そんな私でも、今も合唱を楽しんでおります。神戸女学院高等部コーラス部との混声合唱の練習は、当時の男子学生にとって大きな楽しみでした。彼女たちとは今も「メサイヤを歌い続ける会」でステージに立っております。
大学では、将来は経営者になるんだと言う思いで商学部を選びました。課外活動は宗教総部のSCAと体育会の航空部でした。奉仕活動や、グライダーに乗って空中散歩を楽しんでいました。しかし心の中では、いつも小心者の自分を克服してもっと大きな自分になりたいと思い悩んでおりました。それで時間的、経済的に許される範囲のことは積極的に何でもチャレンジしておりました。
1ドルが360円の時代です。私にとって海外留学なんて夢の時代でした。そんな時、ライオンズクラブの交換学生プログラムを知り、参加しました。初めてのハワイ、カナダ、アメリカ西海岸に感動しました。帰国後、このまま社会人になるよりもアメリカの平和部隊に入りたいとジョンソン大統領に手紙を出しました。なんと数週間後に「NO」ではありましたが返事が来たのには感激しました。平和部隊の構想を日本の文部省にも問い合わせました。今では「青年海外協力隊」が設立され、若者達が世界平和のために活躍していることを嬉しく思っています。
今思えば、これと言って目立ったことのない学生時代でした。でも半世紀以上も前の関学での経験が全て今に役立っています。関西学院と、そこでの多くの友人たちに感謝です。有難う。
関学のDNAのバトンリレー
和田 勇(わだ いさみ)
積水ハウス株式会社 代表取締役会長 兼 CEO
1965年・法学部卒
和歌山の自然豊かな田舎で育ったわたしにとって、関学の上ケ原のキャンパスはとてもまぶしいものでした。落ち着いたまちなみの先に、広大な中央芝生と時計台から広がる西洋式建築の学舎。少し出かければ繁華街、そして梅田へ。大学生になって背伸びした気持ちと、別世界に来た新鮮さが、ないまぜになっていたことを記憶しています。
1961年に始まった大学生活では、アルバイトや友人たちとの全国鉄道旅行に明け暮れ、読書にも没頭しました。中でも“Mastery for Service“というスクールモットーには大いに共感しました。「隣人・社会・世界に仕えるため、自らを鍛える」という精神は、自由闊達な風土で伸び伸びと過ごした経験も含めて、その後のわたしの人生の基軸になってくれたように思います。
住宅とまちづくりの仕事に就き、多くのお客様の幸せや人生にかかわって半世紀にもなります。今や世界にその舞台は拡がりました。積水ハウスの企業理念の根本哲学は「人間愛」。「相手の喜びを我が喜びとし、奉仕の心を以って何事も誠実に実践する」という精神は、〝Mastery for Service〟に通じます。いつも考えていることは「住まいを変えて、社会を変える」という広い視野です。
わたしは高度成長期、バブル期、長期のデフレ期、そして阪神淡路大震災や東日本大震災を現場で経験してきました。目まぐるしく社会は変化し、わたしたちの生活も、想像もつかなかった便利さと快適さを手に入れ、人々の意識も大きく変化しました。
しかし、わが大学のキャンパスの雰囲気は、リニューアルされつつも昔と変わりません。阪神間のまちなみも、震災を経ながらも、独特のゆったりした品のある雰囲気は変わっていません。関学の良さは、キャンパスの美しさだけでなく、関わる人や地域の人々に支えられて存在するのだと実感します。いつまでもあの独特の空気感を大切にしたい。わたしたち卒業生と、これから続く若者たちが一緒にバトンを繋いでいくたゆまぬ努力が大切であり、またその土壌が関学にはあると思っています。
感性を磨かせてくれた母校
和田 剛直(わだ たけなお)
和田興産株式会社 専務取締役
1996年・社会学部卒
関西学院中学部から大学まで“上ヶ原キャンパス”にお世話になりました。関学と言えばまず、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が設計したスパニッシュ・ミッションスタイルの校舎群と緑で覆われた日本で有数の美しいキャンパスを思い浮かべる人が多いでしょう。
小学校6年の時の担任に私学受験を勧められたのですが、当時の私は視野が狭く淡々と日々を過ごしている生徒でしたので、どの私学が自分自身に合うのかと言われても実感が湧きませんでした。親は予定外の経済負担となりますから相当な覚悟があったかと思います。母親に「今日はクワンガクという学校に行ってみようか?」と、須磨の山奥の自宅から、何度も乗り換え2時間もかけて甲東園駅に到着。私は思わず「毎日、通学するのは無理やで」と言ってしまいました。困った表情をした母親は引き下がることも出来ず、学校を見てから結論を出してみようかと私を諭したのを覚えています。学校に近づくにつれ、お碗型の山を背にした時計台がある建物の姿が、時計台の前の緑の芝生を囲むように整然と並んだ外国風の建物と並木が・・・私にとっては見たことのない風景が広がり始めました。その時点で私は志望校と決めました。
現在、分譲マンション企画事業が主である不動産会社に勤務しております。関学の建物のセンスの良さが、現在携わっている仕事の内容に大きな影響を与えているなと思う時があります。特に当時の中学部は戦前からの歴史がある重厚な建物でした。天井の高さ、階段・廊下の幅、各教室の配置、エントランスや中庭の緑地の表現、礼拝堂のデザインなどが、思春期の記憶の中に深く感覚としてしっかりと刻み込まれております。そのような感性を磨かせてくれた母校に感謝です。鉄筋コンクリートの単純な箱の校舎の学校に行っておりましたら、今の仕事をしていなかったかもしれません。
土壌は関学の鷹揚な自由さ
蟻田 剛毅(ありた ごうき)
株式会社シュゼット 代表取締役社長
1998年・法学部卒
「わたしの関学青春時代」の始まりは高等部に入学した15歳の春。中学まで公立校で過ごした私にとって関学の現実はまさにカルチャーショック。中学部からの同級生は雑誌から出てきたような出で立ちで、女子高生と待ち合わせて西宮北口でお茶。文化祭では信じられない数の女子高生が上ケ原に集まり、まるでアメリカの青春テレビドラマ。自分もそれなりに頑張りましたが、まあ無理。文化祭の日の夜は残念ながらほぼ毎年家で夕食でした。
ただ、いわゆる華やかな「KGボーイ」の陰で私同様に苦杯をなめる「裏KGボーイ」風も多く、そんな人はそれぞれ好きな世界に入り込んでいました。普通(?)の学校ならオタクで片づけられる人種も当時の関学では「何か変わった面白いヤツ」と許容される雰囲気があり、本当に自由に己の道を行っていました。
大学ではそんな仲間内で野球サークルを作りましたが、これがけったいなチーム。サークルなのにスクイズやサインプレー、送りバントも多用して作戦で勝つことをひたすら研究する。高校野球の経験者も殆どいないのに勝率は7割超え。他のサークルから「やらしい」と半笑いで呆れられました。個人成績も細かくつけて、架空契約更改までやった記憶が。私の額はチーム5番目位でしたが、年俸ダウン提示に真剣に怒る大人気なさ。面白かったのですが、熱くなりすぎてチームを4回生の時に叩き出されました。今は自分の非が分かりますが、若いというのは恐ろしいですね。社会人になって許しが下り、同窓会に呼んでもらえてありがたかったです。
現在は父の会社を継いで経営する立場です。突き詰めてやるタイプだと思いますが、そのスタイルは好きな世界に入り込む関学青春時代に築かれたのでは。また数字や統計も好きですが、データに対する関心は野球のデータ処理が関係している可能性が高い。自由な校風と言われる関学ですが、私の土壌は間違いなくその鷹揚な自由さに培われたと思います。