9月号
第七回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
乱世を生き抜いた白鷺城
平成の大修理を終えた世界遺産・姫路城はまさに白亜の殿堂。いま、まばゆいばかりに光り輝いている。
姫路城は何と言ってもスケールの雄大さが最高の魅力。大天守閣と、それを囲む三つの小天守との壮大なバランス。白漆喰の白色の清潔さ、あたかも白鷺が両翼を広げて大空に舞うが如くに美しい。別名、白鷺城といわれる所以である。
その昔、赤松貞範が築いた姫山の城が、その後、羽柴秀吉の改築など政略と争乱で次々と城主が変わり、その都度、大きく美しく生まれ変わった。今日の雄大な姿となったのは池田輝政の時代だといわれている。
元弘三年(1333)、赤松則村が姫山に城柵をめぐらして縄張りをしたのが始まりで、その子・貞範が正平元年(1346)ごろ、同地に築城した。しかし、城といえども姫山の西峰に小さな建物を造り、周囲に柵や木戸を設けた程度のもので、これを“姫山の城”と呼んだという。貞則はここを居城とし、以降三年間播磨地方を統治したのである。
その後、他の一族に変わったが、応仁元年(1467)に再び赤松一族の末裔・赤松政則の時代に、本丸、鶴見丸、亀居丸を築いた。規模は小さく十分な防備のものではなかった。織田信長の時代に入って、姫山城主・黒田官兵衛孝高は、信長の中国地方制覇の足がかりとするためにこの城を大々的に改築するよう羽柴秀吉に進言した。三木城主・別所長治を滅ぼした後の秀吉は、毛利攻撃の前線基地にするために入城。天正八年(1580)、改築を決意し、浅野長政と黒田官兵衛孝高を普請奉行に任命し、一年がかりで城は完成した。
秀吉が構築した天守は三層で、いまの規模には到底及ばないが、当時としては安土城に次ぐ大規模なものだったという。秀吉はこの城に単身赴任。母や妻は近江・長浜に残したままだった。
秀吉は次に城下町を形成させるために近郊各地から町人や百姓を呼び寄せた。生野町、竹田町、龍野町などの町名がいまも残っていることで知られる。そのころから今の城下町の体裁がほぼ整えられていたという。
図は、羽柴秀吉(図には仮名・真柴久吉となっている)が最上部で采配し、天守を築造している場面が描かれ、工事用に組み立てたやぐらを透して、遠景に淡路島が望める。
城が今の規模になったのはそれより二十年後の徳川家康の時代。池田輝政が城主になってからのことで、慶長五年(1600)、輝政は家康の命により城の拡張工事を始め、十年の歳月をかけて増改築し、五層六階の大天守閣、三層の小天守、櫓、渡櫓、櫓門、土塀を配して、ほぼ現在に見られる雄大なものとなった。
輝政は家康の信頼を得て、五十二万石の大名となった。淡路、備前などの一族のものも合わせると、実に百万石の領袖となり、「西国将軍」とまで異名をとった。
慶長十八年(1613)正月、輝政は姫路城で没した。輝政が改築した姫路城にいたのは、わずか四年間だった。
この城には様々な伝説が語り継がれている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。