10月号
神戸女学院創設の地、山本通
タルカット、ダッドレー両宣教師の来日
神戸市中央区山本通4丁目(現在の神港学園)の敷地内に、「神戸女学院創設の地」と刻まれた碑が残されている。
明治元年(1868)に神戸港が開港すると、神戸に外国人の居留が許された。明治2年(1869)、米国伝道会は、日本にキリスト教伝道のために、宣教師グリーン夫妻を派遣。夫妻は開港間もない神戸の地を、伝道活動の中心と定めた。グリーン夫妻のもとには、西洋文明を学ぼうとする日本の有志たちが集まり、資金を出し合って宇治野英語学校を設立。後の神戸女学院の創立者、イライザ・タルカット、ジュリア・ダッドレー両女史が来日したのは、そんな折であった。当時、米国伝道会の協力組織である婦人伝道会の支援を受けた2人は、米国伝道会日本派遣婦人宣教師として、明治6年(1873)3月6日、サンフランシスコより日本へ出港する船の上で初めて顔を合わせた。
花隈・北長狭における私塾時代
最初の5ヶ月間を宇治野英語学校を手伝って過ごした両女史は、明治6年10月、宇治野英語学校から独立して、花隈村の前田兵藏方に学校を設立、翌年4月には北長狭の白洲退藏の持ち家に移転した。30名ほどの生徒が在籍していたという。この頃の生徒は、幼い子供から既婚女性、旧大名の妻女から市民の女性まで、年齢も立場も様々だった。授業は唱歌と日本語でのお祈り、英語のリーディングと会話、日本語での旧約聖書と賛美歌をもって終わる。英語の教科書は、聖書に関する子供の読み物が用いられた。
神戸女学院の創設と三田の地、および旧三田藩の人々との関わりは深い。宇治野英語学校や北長狭時代の女学院の支援者として旧三田藩士の前田泰一や白洲退藏が知られており、旧藩主、九鬼隆義の夫人は娘を連れて女学校の授業を受けていた。そして明治8年(1875)設立の寄宿学校に、日本人として最大の経済援助を行ったのは、旧三田藩主・九鬼隆義であった。
明治維新後は一時三田藩知事も務めた旧三田藩23代藩主・九鬼隆義は、幕政時代、藩政にあたって西洋文明に造詣が深い人材を積極的に登用した。幕末期にも鎖国攘夷に影響されることなく、維新後は神戸で元家臣らと貿易会社を設立していた。明治5年(1872)の夏、宣教師デイヴィスが有馬に避暑に行ったときに始まる、宣教師団と九鬼家の交流は、神戸でも引き続きもたれ、隆義の幼い娘・肇が亡くなった際の葬儀も、キリスト教式で行われた。
タルカット女史は明治6年の夏に有馬に滞在し、この地の日本人女性を対象に伝道活動を行っている。明治7年(1874)に、道らしい道に整備される前の、神戸・兵庫から三田に至る道は難所であり、渓谷を越え、断崖に沿って進み、谷で転落死する者もあった。この骨の折れる道のりを、両女史は籠や徒歩で三田に通った。努力は実り、明治8年には三田に会員16名の摂津第三基督公会が設立されている。
神戸山本通に女子寄宿学校「女學校」(英語名Kobe Girls’ School)が開校
タルカット女史の米国伝道会宛の明治7年の書簡には「寄宿学校を開くことができるよう望む」という言葉が記されている。神戸宣教師団は、両女史の学校の発展を鑑みて、神戸における女子寄宿学校設立の時期が到来したと確信している。両女史が三田での伝道を終えて神戸に帰る時、三田の母親たちは娘たちを神戸に赴かせて勉学できるように希望している。これが、寄宿学校の必要性の一因であった。
校舎は当初、借家をあてる予定だったが、敷地を買ってホームスクールを建てる計画へと変更となった。予算の3200ドルでは経費不足であり、増額をボストンの米国伝道会に申請した。旧三田藩主九鬼隆義始め、旧臣前田泰一や鈴木清ら日本人有志も学校設立のための寄付金を募り、800円(800ドル相当)が集められた。
新しい女学校の建築場所は、ダッドレー女史によって発見された。散歩の途中、梅林に囲まれた山手の土地に目を留めた女史は、タルカット女史や諸宣教師らとともに、梅林と水田に挟まれたこの候補地を見定めた。地価も検分し、現在の山本通4丁目(現在の神港学園)に学校設立が決定する。
公式記録では、女学校の校舎(現在の神戸女学院の前身)は明治8年(1875)10月に完成し、10月12日に学期が始まったとされている。明治9年(1876)8月の「七一雜報」の新学期開始の広告には「女學校、タルカツ、ダツレー」とあり、その前文には「山本通の女學校(やまもとどふりのをんながくこふ)」とある。寄宿生3名、通学生は23名であった。タルカット女史が校長となり、ダッドレー女史は舎監と、役割分担がなされていた。あくまで一貫して「ガールズ・スクール(女学校)」と呼ばれ、女子教育のために設立された女学校だったが、この初期には父兄や男子生徒も授業を講聴していたという。
明治8年に山本通に創設された神戸女学院は、その後、昭和8年(1933)に西宮市岡田山に移転する。しかし神戸女学院は、外国文化をいち早く取り入れてきた神戸から生まれ、さらには女子教育のさきがけとなり、多くの優秀な人材を世に送り出している。創立者の一人、初代校長のタルカット女史は、再度山山頂近くにある神戸市立外国人墓地に、葬られている。
〈参考文献〉
神戸女学院百年史編集委員会
『神戸女学院百年史 総説』神戸女学院、昭和51年10月12日発行