11月号
神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 第59回
剪画・文
とみさわかよの
洋画家
上尾 忠生(うえお ただお)さん
視線を画面奥に引き込んでいく、一本の並木道。樹木のエッセンスが見事に描かれた水彩画は、上尾忠生さんの作品です。洋紙ではなく鳥の子和紙を用いるなど、独自の技法を確立しておられる上尾さんは、神戸洋画界の中でも異色の存在。「アカデミックな絵は性に合わない」とおっしゃる上尾さんに、お話をうかがいました。
―神戸とのご縁は?
僕は京都生まれで、昭和14年に住吉に越して来てからはずっと神戸在住。移ってきたのがちょうど阪神大水害の翌年だったから、あちこちに傷跡が残ってたのを憶えている。昭和20年の神戸大空襲で罹災、その後疎開先の四国で吉野川の氾濫に遭った。大きな災害ばかり経験してきたもんだから、阪神・淡路大震災の時は気持ちが座ってたと言うか、動じなかったね。
―美術学校ではなく、工業高校で建築を学ばれたとうかがいましたが…。
父親が建築業で杮葺や檜皮葺の仕事をしていたので、長男の僕は兵庫県立兵庫工業高等学校の建築科に進んだ。絵と出会わなかったら、建築設計を仕事にしていたと思う。実は別車博資先生がこの頃県工で教えておられて、その影響は大きい。先生には可愛がって貰って、「自分の弟子」と言っていただいていた。将来の仕事を考えた時、僕にとって最も純粋な芸術は「絵」だったから、これしかないと絵描きを志した。
―「樹精」というタイトルの絵など、樹木を抽象化して描かれるのは木が身近だったからでしょうか。
僕の中に樹木に対する憧れ、愛着があるのは父親の仕事を手伝っていたからだろうね。でも僕は、水彩画家としては異端かもしれない。35年間所属した一水会では、抵抗しながら描き続けたからやり甲斐があった。修業時代に油彩画ばかりやっていたせいか、単なる水彩画家と言われたくない、水彩画家だって油絵具も使いこなせないといかんという思いがあって。僕の水彩画は、油彩画を学んだ人間の水彩画。金山平三先生の水彩画も、あれは水彩だけ学んで描ける水彩画ではないよ、油彩をきちんとやった人の水彩画だ。
―戦後いち早く結成され、神戸の洋画界を牽引した「神戸洋画会」に所属されてきました。
1945年結成の神戸洋画会はそうそうたる顔ぶれで、ずっと展覧会を開催して活発に活動してきた。僕らはそれを受け継いでやって来たけど、近年は皆年齢のせいか発表が難しくなってきたので、今年解散を決めたんだ。2013年に神戸ゆかりの美術館で「神戸洋画会とモダニズムの継承者たち」が開催されて、有終の美を飾ることができたのはよかった。どんな団体でも、新しいものを発表できなくなったら役割は終わったと考える方がいい。
―画家の発表の場としては、中央の美術団体展があります。これについては?
美術団体展を批判する人もいるけど、皆が毎年それを目指して100号以上の新作を制作して東京の美術館で発表している、それには十分に意味があると思う。小磯良平先生はよく「東京へ出さないとダメだ、中央の展覧会に出すように」とおっしゃって、ご自身も亡くなる直前まで出品されていた。そういうスタイルは今の若い人には馴染まないのかもしれないけど、僕も自分の所属団体で活動していることが基本だと考えている。
―絵を描く情熱は、今も変わりませんか?
81歳になったけど、衰えることはない。健康であることが一番ありがたい、どこか悪いとそれだけで気持ちが滅入るからね。まあ厳密に言うなら僕も、一日の中で座る時間は延びているかな?だけど今でも自分で運転して信州まで絵を描きに行ってるし、同世代と比較するなら元気だよ。きっと逆境を生きてきたから強いんでしょう。
(2014年9月29日取材)
現役で描き続ける上尾さん。自由闊達な絵描き人生は、まだこれからという感じでした。
とみさわ かよの
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。