1月号
神戸で始まって 神戸で終る ㊸
人間には宿命という、生まれながらに、その環境から逃れようとしても逃れることのできない、生まれつきの決定的な星のめぐりあわせというか、構造上そうならざるを得ないことがある。一切の現象はそうなるように予定されていて、思う通りに変えることができない。僕はそんな事情の元に生まれてきたと思います。
どういうことかといいますと、僕は生まれて間もなく、実の両親から離されて、横尾家に養子となって貰われてきました。僕がそうしたくなったわけではなく、僕の意志はどこにも存在していません。如何なる理由があって、実の親から切り離されたのか、全く知らないままに、育ての親になる横尾家の老夫婦の家庭に移され、そこで育てられたのです。
宿命論的には、そうならざるを得なかったのです。滅多にあることではないのですが、そんな宿命の元に生まれてきたのですから、そうせざるを得なかったのです。なぜそうなったのか、僕にはわかりません。養子に入った横尾家の老夫婦は、そのまま僕の両親としてというか、その両親の元で生まれたと思っていました。何の疑問も不思議もありません。
ところが、その後の僕の人生の根元には、この宿命的な事情が終始つきまとっていたのです。物心がつくと同時に様々なできごとが僕に降りかかってきました。それを運命と呼びます。運命とは?一体如何なるものでしょうか。僕は生まれて間もない頃から、絵を描くことに興味を持ちました。老夫婦の元には子どもがなかったので、そこに貰われた僕はひとりっ子として育てられました。そのひとりっ子の僕は、なぜか絵に興味を持ち始めたのです。その理由は僕にも誰にもわかりません。わからないまま絵を描く子どもとして成長していきました。
絵を描くということが、僕にとっての最初の運命だったのです。僕は何の疑問もなく、運命に従って絵を描いてきました。別に絵を描くことに逆らってもよかったのですが、僕の運命はそれを受け入れました。運命とは受け入れるか逆らうかの二者択一を迫ってきます。物心がつくかつかない僕には、運命の定めなど無関係です。ただそうしたかったから、そうすることに従っただけです。自分の意志というより超越的な何かによって、そうなるように定められているのが、どうも運命であるらしいのです。ごじゃごじゃ言わないで一発で結論を出すと、あれもこれも数奇な出来事と言ってしまえばいいんじゃないかな、と思うしかないのです。
僕の最初の運命の出会いが絵だったこと、それが生涯を決定するだろうというようなことは何ひとつ予知できませんが、今、その最初の運命の出会いが、ひとりの人間の一生を決定づけていたということになります。ということは、知らず知らずのうちに幼い僕の魂が運命を受け入れるという選択をしてしまったということになります。
宿命も運命もすべての人間に宿っています。宿命を変えることはできません。なるようにしかならない故に宿命なのです。しかし運命には自由意志が与えられています。運命を受け入れるのも、運命に逆らうのもその人間の思い通りの意志が決定します。ここで僕は自分にとっての運命との付き合い方について話してみようと思います。
僕は生まれながらに運命に従わざるを得なかった境遇に生まれてしまったのです。僕の生の出発点が、すでに運命に従わざるを得ない境遇だったのです。だからというか、その後の様々な運命との出会いに対して、初心貫徹ではないが、僕に襲いかかってくる全ての運命は、全て受け入れましょう。そうすることが僕の運命パターンだからです。
これが僕の基本的な生き方です。一般的には運命に従う生き方を恐れ、怖がる人は多いと思います。何が起こるかわからないからです。ところが僕はなぜか、何が起こるかわからないことに、非常に興味と関心と期待があるのです。予定調和の決まったことには、僕は全く関心が持てないのです。だからもし、自分が運命に逆らって、思い通りに目的と計画を立てて何かを行うとなると、こんなつまらないことはないのです。何が起こるかわからない未知に対してしか、生のエネルギーは機能しないのです。
結論から言ってしまえば、僕の人生は無目的ということになるかもしれません。目的に従って生きる生き方など、何の魅力も価値もないのです。だけど大半が僕の生き方と反対の人が多いのです。たいていの人は、自らに襲ってきた運命に従って、自分の意志を通そうとします。その意志の働きは一種のエゴイズムです。宇宙の意志は決してエゴイズムに味方しません。そういう意味では、反宇宙的な人が如何に多いことでしょう。
しかし、大衆の無意識は実は反宇宙的なのです。ここに、物を作る送り手と受け手の間に大きいズレがあるのです。そのズレをコントロールするのがクリエイトです。だけどクリエイトの核には遊びが必要です。ところが、この遊びを目的化する人間が実に多いのです。遊びには目的はありません。僕が創造の核にインファンテリズム(幼児性)を重視するのは、子どもは遊びそのものだからです。現在のクリエイターで、真の遊びの意味を体現する人間は実に少数です。何故なら無分別の重要性を知らないからです。分別は知性ではないのです。無分別こそ、宇宙的知性です。別の言い方をすれば、霊性です。霊性は知性と対立する概念です。霊性を得たいと思うなら知性を排除する必要があります。だけど現代の芸術は、知性尊重主義です。近い将来、それほど遠くない時期に、この知性は崩落するでしょう。
ぼくはヘレン・ケラー女史と同じ6月27日に父の弟夫婦の間に生まれて、横尾家に養子として迎えられた。養父母はぼくを橋の下で拾ってきたと言った。小さい頃から星空を仰ぎながらぼくはぼくの運命についていつも空想していた。そして星のように点滅するホタルに自分を譬えた。見えない守護霊と子の歳のネズミがぼくの長い航海の伴侶であることをぼくは知っている。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。
2023年文化功労者に選ばれる。
横尾忠則現代美術館
https://ytmoca.jp/