10月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.35
俳優 堀内 正美さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第35回は神戸市在住40年。ポートアイランドに建つ、小児がんの子供とその家族たちの滞在型療養施設「チャイルド・ケモ・ハウス」代表理事を務める俳優、堀内正美さん。
文・戸津井 康之
有名俳優の宿命を背負い…
神戸で「実名と匿名のはざまで生きる」と決めて
神戸在住40年
国民的人気を集めたNHK連続テレビ小説や大河ドラマを始め、映画大作や子供たちに人気の特撮シリーズなど、多ジャンルにわたり、数多くの作品に出演し続けてきた。
「ハッキリと姿をさらすことなく、一回瞬(まばた)きをすると、もう出てこない…。だから私は〝瞬き俳優〟と呼ばれています」
バイプレーヤー(脇役)に徹してきた堀内さんは謙虚に、こうおどけながら優しい笑顔で自己紹介してくれた。
半世紀前の1973年にデビューしているので今年、そのキャリアは50年を数える大ベテラン俳優だ。今も度々再放送されている連続ドラマやCMなども加え、テレビ画面で堀内さんの顔を見ない日はない。幅広い年齢層で、誰もが一度は見たことのある重鎮であるにも関わらず、「私は瞬き俳優です」と謙遜するのには実は理由がある。
1984年、俳優として活躍していた堀内さんは家族と東京から神戸へと移り住む。
「もう40年になります。今も多くの人に勘違いされていますが、この間、私は東京と神戸を行き来していたのではなく、ずっと神戸で暮らしてきました。俳優の仕事は神戸から通っているんですよ。もちろんこれからも…。神戸に骨を埋める覚悟です」と語る。
神戸へ来たのは知人の勧めで神戸市内で薬局の経営を始めるためだった。「俳優兼薬局経営者ですね?」と問うと「いえいえ、薬局が本業で俳優はバイト」と即答。今も堀内さんは、高齢者や体の不自由な人のために自ら車を運転し、薬を自宅まで届けているという。
それでも監督や演出家、プロデューサーたちからの俳優の仕事の依頼はずっと絶えない。
「今、京都の撮影所で撮影しているから出演してくれないか?神戸だから近いでしょう…なんて呼ばれたら行くしかありませんよね」
キャリアは豊富。どんな難役もこなすから巨匠監督たちも絶大な信頼を寄せる。
「時代劇では狂気の殿や悪代官。現代劇では殺人犯や殺される役など…。私は善人や二枚目役よりも、悪人や曲者を演じる方が興味が惹かれるし面白いし好きなんです」
突然の俳優デビュー
堀内さんは1950年、東京で生まれた。父は映画監督の堀内甲さん。叔父はモダンバレエの日本の祖と呼ばれた堀内完さん。
「父は黒澤明監督の助監督をしたり、その後、新藤兼人監督が創設した近代映画協会へ移り、映画を撮っていました。だから自然と父の影響を受けています。でも私は俳優志望ではなかったんですよ」
転機は1969年。東京で上演されていた舞台「真情あふるる軽薄さ」を観劇し、大きな衝撃を受ける。このとき、「舞台演出家になりたい」と決意し、桐朋学園芸術短期大学へ進学。「憧れの千田是也、清水邦夫、蜷川幸雄。大学で彼らに師事するため」と語る。
きっかけとなったその舞台「真情―」は作・清水、演出・蜷川だったのだ。
だが在学中、「TBSのプロデューサーからドラマに出演してと依頼され…」。呼ばれるままに1973年、人気俳優、加藤剛主演の「わが愛」で俳優デビューを果たす。そして翌1974年、NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で、ヒロインが憧れる青年を演じ、その顔と名は全国で知られるようになる。
「想像もしていませんでした。だって私はずっと演出家志望で、俳優を志したことはなかったのですから」と堀内さんは苦笑する。
「鳩子の海」などで誠実な好青年を演じ、日本中の女性ファンを虜にし、すっかり二枚目役としてのイメージが定着したとき。
「石坂浩二の二枚目路線の後を継ぐ座にあなたを据えたい…」。そう提案するプロデューサーや演出家らがいたが、この期待を堀内さんはあっさりと拒む。「その作品に必要とされるバイプレーヤーの道」を選んだのだ。
それでも本人の意に反し、出演依頼は殺到した。一度、演技を見た監督やプロデューサーたちから次々と声がかかる。
その一人が師であり盟友、実相寺昭雄監督。特撮の巨匠からウルトラシリーズのキャストに抜擢されるなど実相寺組の常連となる。
2006年11月、俳優仲間の寺田農さんから実相寺監督の危篤の知らせを受け、堀内さんは神戸から東京の入院先へと急いだ。「監督の奥さん(女優の原知佐子さん)は舞台の公演中。知佐子さんを待ちながら病室で監督の最期を看取らさせてもらいました」
たとえ東京を離れていても映画やドラマの監督や俳優仲間たちとの絆を堀内さんはずっと紡いできたのだ。
震災からの復帰
1995年1月17日。阪神・淡路大震災が発生。
「神戸で暮らし始めて11年が経っていました。家族は全員無事で、自宅もヒビが入ったぐらいの損壊で済んだのですが…」
そう説明すると、声が沈んだ。
「自宅同士、わずか3キロしか離れていない仲の良かった知人宅で、お子さん二人が亡くなっていたのです…」
その衝撃は大きかった。「悲しみは決して対岸の火事ではない」と、すぐに行動を起こした。ボランティア団体「がんばろう!神戸」を立ち上げ、先頭に立って被災者に救援物資を運ぶなど支援活動を始めた。
活動を継続する中、2002年にはNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」を設立する。
「震災の被災者だけでなく、事件や事故などの被害者の遺族も支援したい。苦しみは皆、同じだから」と支援活動の幅を広げ、そこで理事を13年間務めた。
神戸市役所庁舎に隣接する公園「東遊園地」に、「1・17希望の灯り」のモニュメントが建てられている。
《震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出
たった1秒先が予見できない人間の限界…
震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは奪われたすべてのいのちと生き残ったわたしたちの思いをむすびつなぐ 》
刻まれた碑文は堀内さんが考えたものだ。
「避難所で出会った人たちから聞いた言葉。そこからできたのが、この碑文なんです」
支援活動を続ける中で〝ある転機〟が訪れる。被災者やボランティアの仲間からかけられた言葉が、そのきっかけとなった。
「堀内さんにはもっと俳優として活躍してほしい。その姿を見て私たちも頑張ることができるから。〝俳優の堀内さん〟と私たちは仲間なんですよ。そう胸を張ることができるから」と、願う声だった。
「俳優の背中」を見せる覚悟
その頃、東京からもラブコールが届いていた。「ドラマで復帰しませんか?」。旧知の脚本家、小山内美江子さんからの依頼だった。
「私が脚本を書きますから」と。
震災から4年後の1999年から2005年まで放送された人気ドラマ「3年B組金八先生」で堀内さんはケアセンターの所長役を演じた。
「役柄が、神戸でのそのままの私じゃないですか、と小山内さんには文句を言ったのですが」と堀内さんは苦笑した。
被災者を始め事件や事故の被害者やその家族たち、そして病気を患う子供の家族たちも…。「困っている人たちの苦しみは皆同じ」と考えてきた堀内さんは、2021年から、小児がんなど難病を患う子供と、その家族たちが宿泊できる施設「チャイルド・ケモ・ハウス」(愛称〝チャイケモ〟)を支援するために、その代表理事に就任した。
「隣に『兵庫県立こども病院』があるのですが、入院した子供たちに付き添う家族たちが暮らす施設が少ないのです。全国からやって来る子供たちの家族の中には病院のロビーで寝泊まりしたり、車中泊をしながら過ごす人も少なくない。そんな人たちの声を聞き、居てもたってもいられなくなって…」
チャイケモでは家族ごとに暮らせるようプライベート空間が守られた部屋が19室あり、一泊1000円で貸与されている。
「入院は一年以上に及ぶこともある。少しでも家族の負担を軽くできたら」
被災者支援や社会福祉に尽力する堀内さんには「被災者たちからの願いを託された、もう片方の責務もあるのでは?」。そう問うと、「分かっていますよ。俳優業など文化活動の方ですね」と答えてくれた。そして、こう続けた。「実は神戸で演技を学んだり、映画やドラマなどが撮影できるスタジオを備えた文化の一大拠点を作れないか…そんな構想を練っています」
〝神戸からの発信者〟としての役割を担い堀内さんの挑戦はまだまだ続く。
堀内 正美
1950年東京都生まれ。桐朋学園大学演劇科在学中、清水邦夫氏に劇作を、蜷川幸雄氏に演劇を学ぶ。在学中にスカウトされ、73年ドラマ「わが愛」で俳優デビュー。翌年NHK朝の連続テレビ小説「鳩子の海」でヒロインの憧れの人を好演。その後、実相寺昭雄監督との出会いで個性的な役柄を次々と演じる。主な作品は、NHK朝の連続テレビ小説「純と愛」主役の父、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」公家:吉田兼和、NHK土曜ドラマ「芙蓉の人~富士山頂の妻」主役:松下奈緒の父、NHKBSプレミアム「ボクの妻と結婚してください」主役:木村多江の父、EX「アイムホーム」ヒロイン:上戸彩の父、EX「仮面ライダードライブ」、EX「BG~身辺警護人」民事党幹事長・五十嵐映一、映画「亜人」、映画「去年の冬、きみと別れ」など。1984年より神戸市在住。