7月号
映画をかんがえる | vol.28 | 井筒 和幸
昔から、映画は英語で「モーションピクチャー」と言われ、日本ではそれを直訳して「活動写真」と呼んできた。だから、ボクら映画屋は今でも「あのシャシン、かったるかったわ」などと言い合う。
一度でいいから、「いいシャシンだった。気分が出てたよ」と先輩から挨拶代わりに言われるような、そんなものを撮ってみたかった。京都の大映撮影所をベースに瀬戸内海沿岸の街や小島に出向き、『犬死にせしもの』(86年)の撮影を始めたのは85年の秋からだ。敗戦でビルマ戦線から戻った復員兵3人組が海賊になって暴れまくる海洋アクション劇とはいえ、連日の海上撮影は初めてだし、出演者やスタッフと乗った小船に波が当たる度に足が浮いて、気力が集中しなかった。足を踏ん張って演技する20代半ばの真田広之や佐藤浩市、安田成美、今井美樹もテスト通りに芝居の間が取れず悪戦していた。でも、皆、撮影が大好きでボクのリテイクの要求に何度でも応えてくれた。真田君は誰よりもタフで身のこなしがよく、船の操舵も巧かった。佐藤君は自分なりの無頼漢キャラをどう出すかいつも悩み、成美も美樹も一回一回の即興演技に苦心していた。やがて、冬になると、海の風は強くなり、気まぐれな雨も降り、潮の流れも速くなって錨も打てず、作業が難航して一日に1カットさえも撮れないで陸に引き揚げてヤケ酒を煽る日も多くなった。疲れている新入りの助監督を前に「誰がこんな映画を撮ろうって言うたんや、……アホか、オレやないか」と一人漫才をして、笑い合うしかなかった。
厳しいロケの前半戦が終わり、京都の撮影所に戻ると、地回り役の蟹江敬三さんや遊郭の女将役の吉行和子さんも来ていて、久しぶりに大映通りの出汁巻の旨い居酒屋でゆっくり飲んだ。蟹江さんは『二代目はクリスチャン』(85年)から続いての出演だった。「カントクさ、オレの役はまた最後で死んじゃうの?死ぬの嫌だ。今度は殺さないでよ。このやくざは狡いから簡単には死なないのよ」と本気で命乞いするのが可笑しかった。皆、ほんとに芝居好きで、芝居に飢え、芝居の世界に浸かりきっていた。蟹江さんが拳銃片手に遊郭の居間で吉行さんと丁々発止のやり取りをする長廻し場面では弾着の血の飛び方一つ(CG合成が無かった時代だから)手作業で、失敗する度に汚れた衣装を替え、襖の汚れた紙も貼り替え、深夜の深夜まで何十回とテイクを重ねた。それでも、二人共、気が緩むからと夜食も食べずに臨んでいた。でも、こんな不合理な現場でも頼りになる役者たちと虚構の世界に没頭できたことは幸せだった。
ある日、撮影所に来ていた緒形拳さんと便所で出くわした。緊張するボクに顔をほころばせ、「そんな驚かないでよ。ねえ、何か狂ってる役をやりたいね」と言い、「オレ、相手役から、緒形は芝居が下手だなって思われる方が気分いいんだ。よろしく」と言い残して行ったので、ボクは暫し呆然だった。役者は演じていないように見えるのが一番なんだと言いたげだった。それで君の演出はどうなんだ?と問われている気もした。
年末、撮影休暇で東京に戻ると、夏に世界中で最高興収を上げた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年)が大ヒットしていた。見たことがない童顔の主演男優も気になり、ヒューイ・ルイスが歌うノリのいい「パワー・オブ・ラブ」が主題歌だというので息抜きに観た。だが、それは如何にもキリスト教的な道徳観に満ちた子供向けのSFだった。しかも、タイムマシンの車を発明したコント風な演技をする科学者がリビアの過激派集団に殺され、話が過去に戻る。ハリウッドの勧善懲悪モノにはよくアラブ人が敵として現れる。ボクはそんな人間の扱い方に最後まで吹っ切れなかった。年明け、京都に戻って、それを助監督に言うと、「もうアメリカンニューシネマの時代は終わりですよ」と言い返された。
ボクの海賊モノはどんな気分のシャシンに仕上がることやら。にわかに不安になったのを覚えている。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。