1月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第三十五回
中右 瑛
逆落としの奇襲作戦「一の谷合戦」
世にいう「一の谷合戦」は、神戸全域にわたった合戦の総称。戦域は福原を中心に、東は生田ノ森、西は一の谷にまで広がった。
平家・東の陣、つまり生田ノ森には、源範頼を大将とする源氏の軍勢、西の一の谷は敵陣の背後から鵯越えの逆落としの奇襲作戦の義経が攻め入った。
寿永三年(1184)二月七日、その前日は「三草山合戦」(兵庫県加東郡)で勝利した義経軍は鷲尾三郎に先導され一の谷の裏山に辿り着いたものの、あまりにも急な斜面を見て一同たじろいだ。しかし、鹿が通ると聞いて
「鹿も四足、馬も四足、やれぬことはない」
と鵯越えの逆落としといわれる奇襲作戦を敢行した。
一方、一の谷の本営を守っていた平家の総大将は薩摩守忠度である。一の谷の裏山は屏風を立てたような天然の要塞で、背後から攻めてこようとは、想像もしなかった。天から軍馬が降ってくるような義経軍の攻撃に、平家の軍勢はひとたまりもなかった。
平家総大将忠度はじめ、通盛、少年経俊、少年敦盛、少年知章ら、多くの平家方の武将、少年武将が犠牲となる。平宗盛は安徳天皇を奉じ、四国・八島へと逃れた。
義経は、困難な地形を克服した逆落としの奇襲戦法の勝利で、戦術家、知謀の将として、全国に知れ渡った。義経が花々しく登場し完勝したのが、この一の谷合戦である。
図は、風景画で有名な歌川広重が描いた。険しい山々に囲まれた谷間の崖っぷちから義経軍勢が一気に下る様が克明に描かれている。
一方、空は晴天。海は穏やか。海辺には平家陣営の赤旗がなびく。一幅の風景画に昇華させた広重の力量に感服する。
「一の谷合戦」は、このように逆落としから火ぶたが切って落とされたのである。戦の浜といわれた須磨浦の海岸、駒ヶ林、生田ノ森など、各所において戦闘が繰り広げられた。戦いは悲惨を極め、さまざまな悲劇やドラマが生まれた。
「須磨寺・若木桜の由来」
「美少年・平敦盛と熊谷次郎との苦悩の対決」
「父の身代わりとなった知章の不運の死」
「恋しい通盛のあとを追った小宰相の死」
「歌を愛した忠度の最期」
「生田の森の箙の梅の故事」
など合戦哀話・美談は数多い。
次回へ続く
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。