10月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第三十二回
中右 瑛
清盛の狂死・遺骨は経が島へ・・・
反平家の勢力が日に日に高まるのを恐れた清盛は、平家打倒の首謀者・源頼朝を追討のために京都に帰ったのだが、原因不明の熱病にかかった。
清盛は高熱の中で、ひどくうなされた。源氏の怨霊に憑りつかれたのだ。三日三晩もだえ苦しんだ末に
「墓前に頼朝の首を!」
と絶叫して息絶えた。源氏打倒の遺言を残して狂死したのだった。養和元年(1181)2月、ときに六十四歳。遺骨は、彼が生涯で最も力を注いだ摂津の経が島(兵庫・築島)に納められた。
盛者必衰、驕る平家は久しからずの喩えのごとく、清盛の死は、平家滅亡につながる。これを機に、反平家の攻撃が激しくなってきたのである。
図の「平清盛延焼病之図」には、熱病でもだえ苦しむ清盛の姿が描かれている。水は熱で沸騰し、水をかければ飛び散り、灼熱の炎と化す。背景には恐ろしい形相の閻魔大王と地獄の眷属たち。叫び狂う清盛の傍らには妻・時子、三男・宗盛が一心不乱に祈る。
図を描いた絵師は、幕末から明治にかけて活躍した大蘇芳年。歴史絵をよく描き、なかでも武士やその修羅場を得意とした。サムライ、ハラキリ、血みどろなど、彼は常に、死に直面した武士の世界を絵に取り入れていた。芳年は、殺し、死の美学の極限を追求したあまり、自らも錯乱に陥り、狂死した。
それだけに、この絵には、絵師・芳年の錯乱する朦朧の世界が、二重映しに見る者に迫ってくる。人物の表情や姿態は、従来の型を破っていて大らかでリアルである。
また、図にある地獄の亡者の中に、清盛より先に死んだ息子・重盛の姿(右後方に卒塔婆をもった武将)が見える。重盛は清盛を絶えず諌め続けた人物。清廉潔白な重盛の死が清盛の死期を早めたとも言われている。それほどに信頼していた息子を地獄の死者として描いたところに、芳年の強い批判精神がうかがえる。
いま、清盛が晩年、命を懸けて建設した経が島の面影はすでにないが、清盛の遺骨は当地の能福寺に納められたと伝う。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。