4月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㊼ 眼の手術
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
「喫茶・輪」のママとして明るく立ち働いてくれている妻が、年明けから目の不調を訴えた。
そこで、眼科が充実しているという姫路網干の病院へ行ったのが一月十三日。
大したことはないだろうと思っていたが、診察と検査の結果、「網膜前膜症」ということで手術が必要になり、二月十八日と決まる。
その日は寒かった。芦屋で新快速に乗り換えるのだが、駅の線路に雪の塊があって、滋賀方面からやってきた電車が落として行ったものらしい。ということで、電車は少々遅れてやってきた。そのせいで、姫路での乗り換えに一分しか余裕がなかった。しかもホームが違う。あわてて階段へ向かう。長い階段を年寄り二人がえっちらおっちら、一旦降りて、また昇って行ったのだが、駅員さんが階段の上から「急いでください」と言っている。「ちょっと待って」と言って山陽本線の電車を瞬時待たせてしまった。後で気がついたのだが、階段のすぐ反対側にはエスカレーターがあったのだ。歳は取りたくないですね。
あ、そうだ。芦屋で新快速に乗ってすぐの車内アナウンスに「え?」だった。
「次は姫路~」と聞こえた。その後も訂正はなし。そこでわたしは昔のことを思い出し、隣に座る妻に話して聞かせた。
昔、父親が生きていたころだから、わたしはまだ十代。小学生の弟を連れて二人だけで淡路へ海水浴に行ったことがある。今思うとなぜそんなことを試みたのか不思議なのだが、船で岩屋という所に渡り、そこからバスで洲本へ向かったのだった。その時のエピソードが忘れられないでいる。
バスは満員になったがわたしたちは座っていた。バスの屋根が民家の軒を削るような細い道を走ったのを覚えている。やがて車掌さんが「すもと~」とアナウンスした。あれ、ちょっと早いのでは?と思ったのだが洲本で降りなければならないと緊張していたわたしたちは考える間もなく飛び降りた。が、辺りの景色に違和感がある。しかしバスは行ってしまった。もう待ってはくれない。
実はそこは楠本というバス停で、淋しい場所だった。「スモト」と「クスモト」を聞き間違ったのだ。次に来るバスを待って乗り直したのだが、満員で立ったままになってしまった。そんな情けない思い出話である。
だからもしもその新快速電車の乗客で、「次は姫路」を信じてしまう人がいたら可哀そうだなと思ったのだった。でも、次の三宮駅が近づいた時にちゃんとしたアナウンスがあったので大丈夫だったでしょう。
話が横道にそれた。
無事に時間前に網干の病院に入り、受付で入院手続きを済ませ、病室に落ち着きホッとする。
部屋は五階、窓の外に目をやると田畑が広がっている。網干は姫路の郊外、田舎といっていいのだろう。田畑は、黒、茶、緑といろんな色と形に区切られていて、まるでパッチワークだ。その向こうの方に視線を伸ばすと、今どき珍しい煙突からの煙のたなびきが見える。播磨工業地帯の工場群なのだ。なんだか懐かしい気持ちになる。
反対の側にある談話室からの景色もまた情緒がある。
広々とした駐車場の向こうにはやはり田畑があり、それを突っ切るように、先ほど乗って来た山陽本線が走っている。その向こうにはちょっとした街並みが山の裾に続いており、小高い山の頂上付近には大きな瓦屋根の建物が。どうやら寺院らしい。後で調べてみると、「大日寺」といい、いかにも山寺といった趣のあるお寺だ。近くに「朝日山公園」というのもあって、ハイキングに適しているとのこと。いつか行けるかな?
そうして景色を眺めていると、山陽本線を東から西へと12両編成の電車がゆるゆると走るのが見え、安野光雅の絵本の中の景色を思い起こした。
また話がそれた。
妻の手術のことである。
手術は午後三時からということになっていて、それまで何することもなく妻はベッドで休んでいた。わたしは傍らで読書。ところがふと気づくと寝息が聞こえる。時計を見ると、三時十分前である。わたしは「えっ?」と思った。この人、こんな時に緊張感はないの?と。いくら以前に白内障手術の経験があるとはいえ、やはりうちのカアチャンは頼りになると思ったことだった。
でもね、妻の名誉のために言っときますけど、手術中はさすがに緊張して、体がコチコチになっていたということです。
手術の結果ですが、無事に済んでほどなく退院ということに。状況によれば、一週間ほどの入院になるかも、と言われていたのでやれやれホッとしたことだった。
今回は書斎を離れての話になった。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか。