4月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第二十六回
中右 瑛
名瀑・布引の滝―広重異聞
新神戸駅の裏山に、天下三名瀑の一つと謳われた布引の滝がある。いまは、その滝道を遮断したかのように新幹線の駅舎がドカッと居座っている。滝道の景観を損ない、風光明媚な布引の滝に至る周辺の情緒、風姿はすでにない。駅舎の下をくぐり、滝道を川に沿って約700メートルの山峡には雄滝、少し離れて雌滝があり、上流のダムからの放水で、かろうじて名瀑のイメージを保っている。
布引の名瀑は、「伊勢物語」はじめ「平治物語」「源平盛衰記」などの文学、歴史、伝説に登場した。文楽・歌舞伎にも「源平合戦因果物語」として語られ、観客の涙を誘った。
この名瀑は浮世絵にもたびたび登場し、浮世絵師・歌川広重が描いた肉筆名作「摂津布引男滝」「摂津布引雌滝」についての興味深いお話を進めることにしよう。
図の広重描く「摂津布引男滝」からは、夏の朝霧むせぶ飛瀑の豪快なスケールが、「摂津布引雌滝」からは紅葉する深山幽谷の秋の冷気が漂い、滝しぶきが爽快である。周囲の霧にむせぶ鬱蒼たる樹木、幾重もの巨岩の狭間からの水勢の轟音はすさまじく伝わってくる。的確なデッサン力、構成力が知られ、詩情が溢れている。旅行好きの広重のことだから、きっと実地写生であったろう。
実はこの作品は世に「天童広重」と呼ばれ、天童藩のお殿様から拝領したいわくつきのものである。
「天童広重」と呼ばれるに至った経緯について、なかなか興味深い背景がある。
天童藩・織田家は、織田信長の流れを汲む名門だが、ご他聞に漏れず台所は火の車で、赤字財政を立て直すために一策を計画。藩内の豪商、豪農、裕福な町民に対し、強引な御用金を仰せ付けたのである。御用金は三十両とも五十両とも伝わり、中には三百両というのもあったらしい。その御用金の代償として、三十両には双幅の広重肉筆画を、五十両には三幅対を拝領金として与え、御用金を献金にすり替えて帳消しを狙った一揆挽回策だったのである。即ち、献金させてそのお礼に広重の絵を拝領品として与え、藩の名誉を保ったという。江戸詰めの藩士吉田專左衛門と木村宮之助らの狂歌サークル仲間であった広重が、藩の逼迫財政救済を嘆願され一肌脱いだというわけ。
「天童もの」は上質仕立ての双幅、三幅対の豪華版で、表装、署名「立斎」、印など一律に統一されている。幅一尺(約三十センチ)、縦三尺(約九十センチ)、表具は一文字、風帯は銀襴、鹿角の軸先、題材は風景が多く、人物画はいたって少ない。「立斎」署名の脇には、金泥で題名がしたためられているのが特徴である。軸箱に入り、由緒書には嘉永四年秋ごろに拝領されたと記録されている。
広重五十歳。人気絶頂、超多忙の時代だった。
余り聞きなれない「天道広重」だが、知る人ぞ知る「広重の大珍品肉筆画」として好事家たちの垂涎の的なのである。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。