4月号
触媒のうた(62) ―宮崎修二朗翁の話をもとに―
富田砕花翁 Ⅲ
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
前号に、入院中の宮崎翁が新聞の切り抜きをしておられて比較的お元気だという話を書いた。―ところがその切り抜きは翁ご自身のためではなく、わたしに読ませてやろうとの親心。わたしは涙がハラリだ―などと。
その後、翁は転院されて別の施設におられる。そこへわたし会いに行きました。そしてその帰りに「これ、あなたに」と言って封筒を手渡された。
帰宅して開けてみると、朝日新聞の「折々のことば」というコラムの切り抜きがいっぱい。そしてメッセージが。
「貴兄の血になってくれる―そう思ってこの小欄を切り抜きました。鋏のありがたさ、すべてのありがたさ」
わたし初め、「鋏のありがたさ」というのが何のことか解らなかった。ところが切り抜きを手に取って見て、わたしは息をのんだ。縁がみな、切手のミシン目のようになっている。鋏で切ったのではないのだ。丹念に、爪で千切り抜いてある。翁は院内で鋏を持たせてもらえないのだ。身の回りに刃物を置かせてもらえないのだ。
先年には脳梗塞を患われた94歳の翁が、背を丸めてわたしのために千切り抜きをして下さっている姿を想うと、「涙がハラリ」なんて軽い言葉が恥ずかしい。笛吹かれても踊れぬ凡夫のためになんということを。
※ ※
富田砕花翁についての宮崎翁の話。
~学生徒歩旅行~
「大変おもしろい話があるんです。これは『人の花まづ砕けたり』にちょっと載せてますが、あまり知られていないことなので。
明治の終わりごろですが、新聞『万朝報』に「学生徒歩旅行」というのが企画連載されました。第一回(明治44年)は大阪―東京間で、選抜された学生が毎日、その日の行程の紀行文を書くのです。第二回は青森を起点に、日本海と太平洋岸沿いのふた手に分かれ、毎日、紀行文を送りながら東京までどちらが早く着くかというコンテストで、紀行文も採点に加わるのでした」
以下『人の花まづ砕けたり』より。
その壮挙に(砕花)翁は闘志をたぎらせた。
「学生徒歩旅行」の応募者は千名を越えたという。その中に富田戒治郎はいた。(略)結果が発表された。日本海側コースの正選手は医学生佐々木好母で、補欠が東大生の久米正雄。太平洋岸コースは東京商大の清水都代三を正に、富田選手は補。…と決まると、富田選手は飄然と信州針ノ木峠に登ってしまった。
―もう用はねえんだろう、と思ったんだ。
折から暑中休暇、当分、山歩きと思案が楽しめる、というわけだ。
ちなみに佐々木好母は、童謡♪月夜のたんぼでころろころろ ころろころころ鳴る笛は…の作詞も残した人。清水都代三は山田耕筰作曲♪ねんねこしゃっしゃりませ…「中国地方の子守唄」の知られざる作詞者であり、
(略)
ところが間もなく『万朝報』と全国の愛読者をやきもきさせる突発事件が発生した。盛岡までたどり着いた清水選手が倒れ、補欠たるべき富田選手の消息は杳として不明。新聞社では連日「社告」で「至急ご来社を乞ふ」と呼びかけたが、当の“風”氏は信州山中とあって、そのことを知る由もなかった。急遽、新聞社では相手方の補欠久米正雄を代役に立てた。(略)―(富田選手は)たまたま、大町までパンを買いに下山して、友人たちに五、六枚はがきを出したから住所がわかったんでしょう。「マンチョウホウヲミヨ」という電報が届いた。何のことかわからないまま諏訪へ行き、新聞を見て、事情がわかった。でも、もう間に合わないので、たまたま同地にいた浜本浩(作家)の所で一泊して、帰京した。
「『紀行文に久米が〈悲しき愛の作者よ〉と富田選手へのメッセージを書いたりしてましたねえ』とは、当時の『万朝報』を愛読していた有本芳水さんからお聞きした話です。
久米がいよいよ千葉から東京へ入って来るんですが、砕花翁は労をねぎらいに迎えに行かれるんです。江戸川にかかる橋を渡ると、そこがゴール。二人一緒に歩いていたんですが、川風がサーッと吹いてきて、久米がかぶっていた麦わら帽子が飛ばされ川の中を流れてゆく。すると、ある男が着物を脱いで川へ飛び込み、泳いで行って拾って来て、うやうやしく久米に渡した。ゴールの様子を見に集まった観衆はヤンヤの喝采だったと。その男が学生時代の松岡譲だったというんです。後に松岡と久米は夏目漱石の長女筆子を巡って恋敵になり、筆子は松岡と結婚するんですがね。久米はその失恋体験を「破船」という小説に書いて有名になるんです。同情を集めてね。一方松岡は『法城を護る人々』など多くの著書があり優秀な人ではあったんですがそれほど有名にはなりませんでした。
文学史上の隠れたエピソードです」
出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。