4月号
甲南学園 100周年|我々もまた、 知らず知らずのうちに 平生釟三郎の恩恵にあずかっている
実業界、教育界、政界、そして社会奉仕。平生釟三郎は生涯にわたり、多方面で実績を残した。神戸・阪神間、そして日本の国に暮らす今の人たちは大きな恩恵にあずかっている。その足跡を辿ってみた。
母校附属主計学校で初めて教べんをとる
1890年、苦学の末に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した平生釟三郎は、海外への夢を胸に秘めながらも生活のため、附属の主計学校で英語と経済学を教える助教諭となった。この時から既に、平生と教育との関りが始まっていた。
朝鮮仁川で仕事の傍ら私塾を開く
翌1891年、平生の夢は叶う。母校の矢野次郎校長からの推薦を受け、朝鮮の仁川海関に勤務することになったのだ。この地で英語力を磨き、仕事の傍ら夜間は私塾を開いて英語を教えるまでに至る。この英語塾が後に発展し、現在の仁川南高等学校になっている。
県立神戸商業学校の校長に就く
1893年、またも平生は矢野校長の推薦を得て帰国し、27歳の若さで県立神戸商業学校校長に就任する。風紀が乱れ廃校寸前にあった同校を、わずか1年で立て直したのだった。1世紀以上の時代を超えて、同校の流れは現在の兵庫県立神戸商業高等学校へと受け継がれている。
東京海上保険で数々の業績を残す
平生の業績を実業界が放ってはおかなかった。強く請われ、1894年、東京海上保険の筆頭書記として入社。大阪・神戸支店を開設し軌道に乗せる、ロンドン支店の赤字体質を見抜き廃止する、日露戦争時には情報戦で利益を上げる等々、同社の経営拡大に大きく貢献する。この頃、ロンドン支店への長期出張で英国のパブリックスクールに出会い、後の教育理念に大きな影響を与えたといわれている。1917年には、東京・大阪両支店長を兼ね、専務取締役に就任する。
58歳で社会奉仕専念を決断
甲南病院を設立
30代にして実業界で一目置かれる存在となった平生だったが、1925年、60歳で社会奉仕に専念するべく、東京海上保険の職を辞した。最初の社会事業が甲南病院の設立だった。二人の妻を相次いで病で亡くしていた平生は、「医は仁術なり」を解さない医師の多さを危惧し、「誰もが受けられる医療」を目指して財界からの寄付を募り9年かけて開院にこぎ着ける。弱者支援や災害支援をはじめ、病診連携や完全介護制、病院食改善など今では当たり前となっているサービス提供を始めた。
灘購買組合(現・コープこうべ)結成にも尽力
平生はさらに、イギリスで協同組合の活動に関心を寄せていたこともあり、神戸購買組合を立ち上げたキリスト教社会活動家・賀川豊彦に共鳴。実業家の那須善治を賀川に紹介し、賀川の熱意に心を動かされた那須は1921年に灘購買組合を設立した。戦後、神戸購買組合と灘購買組合は合併し、現在のコープこうべとなり、世界屈指の規模を誇る生協に発展している。平生は賀川に多大な援助を行うと共に、灘購買組合の理事に就任する。
強く請われ、川崎造船再建の責務を負う
社会奉仕に打ち込む平生だったが、実業界ではまだまだその手腕が必要とされていた。1931年、日本の三大造船所の一つに数えられ、神戸市民の2割が社員かその家族ともいわれた川崎造船所の和議整理委員となり、2年後社長に就き、3年近くにわたり無給の社長として同社の再建を成し遂げた。
ブラジル経済使節団長を務め、綿貿易推進、日伯友好関係を深める
1935年、当時の政府は、日本にとって重要な移民先であるブラジルへの経済使節団視察を企画し、団長として平生に白羽の矢を立てる。一行は4月6日、神戸を出港、10月28日に帰国するまで約7カ月にわたり現地に滞在した。その間、平生は「ブラジル拓殖組合」を結成し、綿花栽培を奨励して日本への輸出の道筋をつけた。その結果、両国間の貿易額を10倍以上に伸ばす成果につなげただけでなく、両国の共存共栄の体制をつくり、親善友好関係を深めた。
文部大臣として入閣
平生の人柄と手腕に政界も着目し、1936年、広田弘毅首相に請われ文部大臣として入閣。短命内閣で実現には至らなかったが、義務教育年限を6年から8年に延長するために尽力した。
苦学生を支援「拾芳会」
自身が官費生だった平生は、その恩返しとして苦学生に温かい手を差し延べた。1912年、5人の学生に学資を提供、その後30年にわたり、私費で返済無用の育英事業を続けた。神戸の奨学生たちは平生宅に下宿して、家族のように寝食を共にしたという。これがやがて「拾芳会」という組織となり、支援を受けた学生たちが謝恩の集いを続けている。