4月号
神戸鉄人伝 第112回 新絃社二代家元・作曲家 狩谷 春樹(かりや しゅんじゅ)さん
剪画・文
とみさわかよの
新絃社二代家元・作曲家
狩谷 春樹(かりや しゅんじゅ)さん
兵庫県立芸術文化センター。着物姿の奏者たちが呼吸を合わせたかと思うと、舞台いっぱいに並んだ筝が鳴り響きました。尼崎に拠点を置く新絃社による公演は、そのスケールが魅力です。この団体を率いるのは二代家元の狩谷春樹さん。狩谷さんは筝・三絃の演奏だけでなく、「清少納言に魅せられて」など斬新な曲を発表、作曲家としても注目されています。「たくさんの人に邦楽の魅力を知って欲しい」と微笑む狩谷さんに、お話をうかがいました。
―狩谷春樹の名を継がれていますが、跡取りとして育てられたのでしょうか?
新絃社は父、狩谷春樹(はるき)が昭和10年に立ち上げた団体です。ところが跡を継ぐはずだった弟がチェロに目覚め、邦楽家にならないと言い出しました。それで父が、中学生だった私に「お前しかいない」と…。それからは跡取りとして、厳しく仕込まれました。そんな運命を受け容れたのは、他の世界を知らなかったこともありますが、やはり「邦楽の裾野を広げる」という父の気持ちを、私なりに汲みとったからでしょうね。
―家元というと、やはりお弟子さんが大勢の環境で?
家の中は内弟子でいっぱい、その方たちが朝から晩まで練習するので、あまり上手とは言えない演奏を毎日聴き続けるわけです。子どもの頃は勉強道具を紙袋に入れ、居場所を捜して家中を移動していました。父は稽古、母は病弱な弟にかかりきりで家族の会話はあまり無く、そのためか私は今でも言葉で伝えるのが苦手。そんな幼少期の体験から、私は仕事場と家をきっちり分けています。
―音楽大学では作曲を学ばれたとか。
進路選択の際、作曲もできる奏者を目指して、大阪音楽大学へ進学しました。邦楽科ではなく作曲学科作曲専攻です。父も作曲を手掛けていましたから、抵抗はありませんでした。若い頃は小難しい曲を書いていましたが、今は気負わずに作れるようになったと思います。作曲は自身の活動の中でも、大きな「幹」ですね。
―新絃社を率いるようになって30年近くなるわけですが、今のお気持ちは?
1990年に父が71歳で亡くなり、地に足が着かない状態で放り出された時は戸惑いました。でも父の目標を理解していたので、どこを目指すかに迷いはありませんでした。父は邦楽を「いいお宅のお嬢さん」ではなく、一般の方々に広めたかったのです。奏者の開拓は大きな課題。若い生徒たちには、新しいことにどんどんチャレンジして欲しいと願っています。生徒の活躍が会を発展させると思っていますから。
―指導では、何に重きを置いておられますか。
毎日11時から21時までスタジオで教えていますが、私が大切にしているのは生徒たちが「舞台に出てよかった」と思えること。「趣味だから無理して舞台に出なくてもいい」というのは間違いです。私はどの生徒も、舞台で一番輝くように指導します。「趣味だからこそ、命懸けでやりなさい」と言うと、皆変わってくる。そんな気持ちの高まりが、心に響く舞台を創り上げると信じています。
―これまでご苦労もあったと思いますが、ずっと続けてこられたのは?
仕事は楽しいことより苦しいことが多いのが常です。でも中学・高校・大学時代を通してずっと父の公演に出ていて、演奏の楽しさを知っていましたからね。やめようとは思いませんでした。そして曲を書いてきたことも、根底で私を支えてくれています。それより何より忙しくて、悩む間も無くて。4月には新絃社の定期演奏会がありますし、気を抜かずに頑張らなくては!(2019年2月28日取材)
家元という重責を背負いながらも、多忙な毎日を軽やかに生きる狩谷さんでした。
とみさわ かよの
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。