7月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第二十九回
中右 瑛
清盛遷都・福原に居す
神戸、新開地にほど近い処に福原がある。戦後のある時期までこの福原一体は遊郭として栄えた。すでにそのころの賑わいはない。
いまからおよそ八百三十年も昔、平安時代の末期、平清盛がこの福原に居住し、遷都を考えていたことは余りにも有名だ。当時の福原とは、今の福原界隈よりもはるか広範囲な地域を指したという。神戸には京都の地名、神社が多い。東山町、北野町、熊野町、北野天神、祇園神社、熊野神社、厳島神社など。雪の御所町には清盛邸を構えた。
清盛が京都から神戸福原に都を移すという大義に至った経緯は一体何だったのであろうか?
「保元の乱」(1156)、平治の乱(1159)以来、平家、源氏の権力争いで優位を誇った平清盛。上皇や天皇に信頼され、対立する源氏一族を追放した。清盛は、着々と勢力を伸ばし、政治家として武将としての政治手腕を発揮して、四十九歳で内大臣、五十歳にして太政大臣まで上り詰め、娘徳子を高倉天皇の許に入内(1171)させ、天皇家とも強い繋がりを持ち、政界、院内での地位は確固たるものになった。栄耀栄華を誇り「平家にあらざる者は人にあらず」とまで言わしめた。平家一族は栄華の頂点に達する。
清盛は病により出家(1168)。仁安五年(1170)、福原に別荘をもつ。以降10年余り福原に生活の中心を置く。
清盛が遷都を強行したのは治承四年(1180)六月、それには重要な理由があった。それは、中国・宋との貿易で財を成した平家一族にとって国際交易港が最も必要で、神戸こそその利に叶い、平家末代まで繁栄の地であると確信したに外ならない。
海外に眼差しを注いだ世界観は、気宇壮大、一流のものであった。
福原遷都は、多くの者の反対にあい、死を間近に控え挫折する。
図は、武者絵で人気があった歌川国芳が描く。海を見渡す高台の清盛屋敷からの眺望。一門を従えた清盛は扇をかざし、露台(バルコニー)で威風堂々と立つ。海の彼方に夕日がいままさに沈まんとする。しかし、その夕日を扇で差し戻すという道理もわきまえぬ強引な清盛像という。
しかし、別な講釈がある。台風、災害などで港建設の工事がはかどらず、時間を惜しむあまり、沈む夕日を引き戻したいという焦りの心情をくみ取る者もいる。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。