2012年
10月号

触媒のうた 20

カテゴリ:文化人

―宮崎修二朗翁の話をもとに―

出石アカル
題字・六車明峰

前号に、三浦光子さんの著書『悲しき兄啄木(たくぼく)』は穎田島(えたじま)一二郎さんの代筆によるものだと書いた。そのこと、もう少し。
昭和38年に穎田島さんの編集による『新撰ポトナム集』という歌集が「ポトナム短歌会」から出ている。そのカバーを見て驚きました。簡単な素描だが、あの林武画伯が絵を描いている。穎田島さん、いい人脈をお持ちだったのですね。
発行所は京都の初音書房。『悲しき兄啄木』と同じだ。しかもその歌集には、ポトナムの「主たる編集者」として穎田島さんの名が「昭和9年~19年。昭和32年~」に上がっている。
穎田島さんは、戦前も戦後も「ポトナム」の有力編集者であり、しかも初音書房は、ポトナム同人の歌集を無数といっていいほど多く出版している。そのお世話をなさったのも穎田島さんなのだろう。穎田島さんと初音書房の社主で神戸歌壇の先輩小島清氏との歌の縁(えにし)は深かったということだ。
これらいろんな資料を考察し、それに宮翁さんの証言を合わせると、『悲しき兄啄木』は穎田島さんの代筆と断定して間違いない。

前号に書いたように、今年が芦屋聖マルコ教会創立100周年ということを偶然に知った。
啄木の妹、光子さんが芦屋市公光町の聖使(せいし)女学院に入学したのが明治43年。その二年後の明治45年に、この女学院のチャペルで、近くの信徒が集まって主日礼拝を行ったのが「芦屋聖マルコ教会」の始まりだったという。だから、光子さんが入学したのは102年前ということだ。
宮翁さんはこの話を富田砕花(さいか)さんの奥様からお聞きしたのだと。
この際、砕花さんと啄木との関連をちょっと。
宮翁さんは生前の砕花邸の門番と自他共に認める人。砕花さんの逝去後には『人の花まづ砕けたり』(ジュンク堂書店)という砕花さんを書いた著書を出しておられる。
「砕(花)師はね、実は啄木の人間性をあまりお好きではなかった。同じ盛岡の出身ですが、啄木は三つ年上ですし新詩社でも先輩だったので見下す態度だったと。砕師が最もお嫌いだったタイプの人間ですね。彼が親友宮崎郁雨に宛てた手紙で、“砕花は危険思想の持ち主”と陰口をきいている証拠を僕は現物で実証してます。啄木の日記には砕師の名が度々出て来ますが、中に“富田君曰く『握りしめたる拳に卓をたたくものここにあり』。十一時まで語る”というのがあり、これには説明が要りますが、要するに二人の縁は強いものだということ。啄木にはこうした二面性があったんですね」
啄木の死は明治45年4月13日。
「砕師が話しておられました。啄木の死の報を聞いて、吉井勇と弔問に行ったが、啄木の臨終を看取ったという若山牧水の姿は見えず、枕頭に誰もいず香典を渡す相手もいないので、二人で江戸川(元小石川区の)べりの牛鍋屋に上がって昼飯を食べたということでした」
さらに砕花さんからの興味ある思い出話。
「与謝野鉄幹家での徹宵歌会のとき、啄木は“君が目は万年筆の仕掛けにや いつも涙を流してゐたまふ”という歌を苦し紛れに披露したと、笑いながらお話し下さいました。この歌は発表されず、歌集にも採録されてはいません」
あれ?それはおかしい。
わたし、宮翁さんに申しました。
「その歌、読んだことがあります」と。すると翁、真顔で
「そんなことはないでしょう。これは砕師が僕に話して下さった秘話ですから」
でもわたしには覚えがあった。
先に上げた復刻版『悲しき兄啄木』の中の上田博氏による解説の中に、啄木のユーモア性を説明する中でこの歌が出てくる。
しかし面白い。砕師は「苦し紛れ」と言い、上田氏は「ユーモア」という。けどこれは、現場に同席された砕師のおっしゃるのが本当でしょう。徹宵歌会は一夜の間に百首以上もの歌を作るのだと。そりゃあ苦し紛れもあるでしょう。
しかし発表されていない歌をなぜ上田氏がご存知だったのか。
「それは、砕師が穎田島さんにもお話しになったのです。穎田島さんの取材のことを僕は覚えていますから。その記事(短歌の総合誌『短歌研究』)を上田さんがご覧になったんじゃありませんか?」
そういえば上田氏は「ポトナム」の同人でもある。可能性は高い。
 
今回は「啄木の妹」と題して書き始めたのだが、大きく横道に逸れました。宮翁さんのお話は往々にして縦横無尽に飛び回ります。今後もこんなことがあるかと思いますがお許しのほどを。
     ※          ※
と、ここまで書き上げて、あとは送稿するだけとホッとしたのだが、予期せぬことが起こった。
光子さんのことを調べる過程で彼女の夫君、三浦清一氏のことを書いた『羊の闘い 三浦清一牧師とその時代』(藤坂信子・熊日出版)という本があることを知り注文していたのが届いた。今回のものに活用するつもりはなかったが興味を持ったもので。ところがこれを読んでいて「アッ!」と声が出た。驚いたのは次の記述である。
―光子が名古屋市にある神学女子専門学校の聖使女学院に入学したのは明治43年春のこと。―
えっ?光子さんは芦屋ではなかったのか!これではわたしが書いたものがウソになるし、元々書くべき根拠が薄れてしまう。あ~~~あ、せっかく書いた原稿が…。今更どうする?わたし、あわてて宮翁さんに電話しました。すると翁、
「わたしも砕花夫人から芦屋で卒業とお聞きしていましたからねえ。光子女士にお会いした時、聖使女学院のことは聞いてはおりません。啄木とのことだけで」と。
しかし翁は、急きも慌てもせずに「面白いですねえ」と。そんなことはよくあること、と言った感じだ。
「この連載(「触媒のうた」)は元々僕から聞いた話ということでしょ?だからちっとも問題ないです。こんな話もありますが、どちらが本当でしょうかねえ?と読者に問いかけるように書かれたらどうですか?そこが連載のいいところですから」
なるほど、その手があった。折角書いた原稿、無駄にはならないのだ。
でもわたしは気になって仕方なく、芦屋の聖マルコ教会に電話して尋ねた。しかし電話に出て下さった人は詳しくはご存知なく、「今年は芦屋聖マルコ教会の創立100周年でした。それを記念した『100年誌』をまとめた人をご紹介しますので、その方にお聞きください」と。
その人、小池宣郎(のぶお)さんは親切に教えて下さった。
「聖使女学院は、先ず明治39年に名古屋に開校、光子さんは明治43年にそこに入学しておられます。聖使女学院は明治44年一月に芦屋に移転するのですが、その先遣隊として光子さんは、43年12月に舎監と賄いの女性との三人で芦屋にやって来ておられます」
ということで、光子さんは最初名古屋の聖使女学院に入学し卒業は芦屋ということだった。
やれやれである。間違いではなかったのだ。ただし、わたしは先に、芦屋聖使女学院に入学したと書いた。これは卒業と訂正しなければなるまい。

『羊の闘い』であるが、他にも興味深い記述がある。
大正13年に光子さんが九州日日新聞に書いたエッセー「兄啄木のことども」という文章に関して。
―少し気になるのは、文体や表現のなかに清一を感じさせるものがあることだ。例えば、「十三年と云ふ長いタイム」など、平たく「時間」といえばすむものに英語を使ったり「ロシアの若いバカボンドの群はヴォルガの河をわが母よと申しますが、北上川は私共兄妹に取りてはなつかしい母であるのです」などというくだりは、どうも清一くさい。―
ということです。
もうこれ以上、光子さんの代筆のことをいうのはやめましょう。それによって光子さんの著書、『悲しき兄啄木』の価値が損なわれるものではまったくないのだから。
さて、光子さんのご主人清一氏である。
この人についても宮翁さんはよくご存知だった。
「戦時中は投獄されるなど苦労なさった人です。そして戦後は社会党県会議員として活躍されました。さらにいえば、賀川豊彦とも親密であり、賀川と同じようにクリスチャンであり詩人でもありました。わたしが光子さんを取材に行った所もこの清一氏が館長をしておられた孤児収容施設「愛隣館」でした」
清一氏は誕生(明治28年)からしてドラマチックである。
『羊の闘い』(藤坂信子著)によると、氏の母ツテは熊本から移民団の一員としてアメリカへ渡っている。そこでアメリカ人の恋人ができ、しかし彼には妻があり…。でツテは日本に帰り、やがて自分が身ごもっていたことを知る。しかし、相手の男に知らせてはいない。その後の母子の苦労はあの時代のことである、言うには及ばないであろう。

  「明るい朝」
              三浦清一
冬晴れのすがすがしい朝だ
白梅の花は太陽の光を一杯にかぶり
馥郁たる香気は茶の間にまでかおつてくる
妻が朝飯のしたくをするあいだ
私はひとりで茶をいれる
そしてゆっくりと茶の味を味わう
―略―
「ごはんにしましよう」
朗らかな声で妻が台所から呼ぶ
妻と私とわが家の青年とおやこ三人のつつましい食事が始まる
妻は自分の漬けた漬物のよくつかつたことを云う
青年はいくつもいくつもおかわりをする
「やりきれんわ」―大げさな表情で妻が笑う
私は心の中で戦争のいやだつたことを考える 
そして平和の日の楽しいことを考える
―略―
三浦清一詩集『ただ一人立つ人間』より

清一と光子は波乱の人生を送っているが、こんな穏やかなひと時もあったのだ。



■出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。