12月号
神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 第60回
剪画・文
とみさわかよの
佳生流副家元
西村 公延(にしむら こうえん)さん
「さんちか夢広場」の巨大ないけばな、と言えばご存じの方も多いでしょう。四季それぞれの花を盛り込んだ作品はまるでオブジェ、大自然の風景を生けたかのよう。それを手掛ける華道家の西村公延さん。「あれは四方から見られるからね、見る角度によって違った感覚で楽しめる」と西村さん。「さんちかではいつも、癒しの作品を展示する場を与えていただいていることに感謝しながら生けてるんですよ」と語る西村さんに、お話をうかがいました。
―佳生流の歴史を教えていただけますか?
祖父の西村翆雲は、西脇市の黒田庄町船町(旧多可郡)の人間で、絵画、書、写真、バイオリンなどをたしなむ、いわゆる文人でした。祖父は大正8年から、大阪から真盛流の上田正道先生を家に招き、いけばなの手ほどきを受けていました。日帰りできない田舎なので何日も逗留していただき、近所の人も集まって来て一緒に楽しんでいたのですが、正道家元がお亡くなりになって後を継ぐ方がなく、皆さんに推され祖父が昌鳳院流を創始しました。それが昭和2年のことで、その後も田舎で楽しく活動していましたが、昭和17年に父の現家元・西村雲華が神戸に進出します。昭和19年に「これからは流派にこだわらず、自由にいけばなを楽しもう」と言う思いで新日本華道と改名。その後時代も変わり、昭和58年に「佳生流」と改め今日に至っています。
―この世界に入られたのは?
昭和31年に西村雲華が家元となりましたが、僕は跡を継ぐ気もなく、住宅会社に勤めていたんです。ところが父が病気で70㎏あった体重が50㎏になり、父周辺の人たちからもう先が無い、どうか跡を継いでくれと口説かれ、仕方なく会社を辞めて本格的にこの道に入ったのが昭和44年のこと。あれから45年、家元は今でもお稽古を楽しんでおられます。
―お父上の策略ですか。
まあ、中学生時代に始まり高校生・大学生の頃は父の手伝いで全国を回っていましたから。知らない間に、そのように仕向けられてしまったのかな。僕は花を生けることには何の抵抗も無いし、生けること自体は非常に楽しいんですが、どうも家元というタイプではないので…。無理矢理いけばな界に引っ張り込まれたので、若い頃はいけばなは芸術じゃないと思っていました。
―現在、いけばなは「芸術」と言われていますが…。
でも僕はあんなこと誰にでもできる、遊びや、と真剣味が無かった。それを払拭してくれたのは、彫刻家の新谷琇紀さん。彼が「いけばなは日本の文化、すばらしい芸術や。アメリカやヨーロッパのもんが、なんぼ真似しようとしてもできんのやぞ」と。父親のもとを飛び出してイタリアで修業した彼から、「人は生まれ育った土地で培われた精神性から、そう簡単に抜け出せるものではないと悟った」と聞かされ、外ばかりに目を向けていた自分を恥ずかしく思いましたね。それからは気持ちも新たに、いけばなを楽しむようになりました。
―「神戸ビエンナーレ」にも参加されています。
初回から参加していますが、作品を展示する環境が違い、アートという感じかな?私の作品が、近畿宝くじのデザインに採用された時は嬉しかったですねえ。次はどんなテーマだろう、どんな材料が見つかるだろう、と毎回とても楽しみです。
―今後の夢などはありますか?
夢というか、1人でも多くの人にいけばなの本当の楽しさを知って欲しい。いけばなは格式が高く、約束事が多くてとっつきにくいと思われがちだけど、そんなことありませんよ。自然の中で咲く花たちは、どんな花同士でも仲良く調和して咲いているでしょう?あなたは隣に咲かないで、なんて言いませんよね。だから僕は、花屋さんが揃えてくれた花は残さず全部使います。あれとこれは合わないとか、この時にこの花は使ってはダメとか、そんなこと言われたら花が可哀想です。それこそ「世界に一つだけの花」なんだから、一輪一輪大切に扱いたいですね。隣にどんな花をあしらっても、合わせる工夫はできるんですよ。楽しいと思いませんか?
(2014年10月15日取材)
少年のような目でいけばなを語る西村さん。精力的な活動はこれからも続きます。
とみさわ かよの
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。平成25年度神戸市文化奨励賞、平成25年度半どんの会及川記念芸術文化奨励賞受賞。神戸市出身・在住。日本剪画協会会員・認定講師、神戸芸術文化会議会員、神戸新聞文化センター講師。