4月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉔前編 カール・ユーハイム
カール・ユーハイム
ドイツの味を日本へ…どん底から立ち上がった菓子職人
鮮烈なデビュー
近年、空前の〝スイーツ・ブーム〟が続いている。連日、次々と和洋のお菓子の新製品が発表され、ブームの勢いはおさまりそうにない。だが、このブームの影では、新製品が生まれる一方、消えていくお菓子も少なくない。片や、ブームに関係なく、一過性で終わらない不動の人気の洋菓子がある。世代を超えて愛されてきた「バウムクーヘン」はその代表格といえるだろうか。日本で初めて、このドイツのケーキを紹介したのはドイツ人、カール・ユーハイム(1886~1945年)。神戸市の製菓会社「ユーハイム」の創業者である。
3月4日は「バウムクーヘンの日」。こう呼ばれていることを、ご存知だろうか?
今から一世紀以上も前。1919年3月4日、広島市の「広島県物産陳列館」(現在の原爆ドーム)で行われた「ドイツ作品展示会」の会場で、ユーハイムはバウムクーヘンを製造販売した。これまで食べたことのない洋菓子の食感に、多くの日本人の来場者が驚いたという……。
これが、初めてバウムクーヘンが日本でお披露目された日といわれている。
興味深いのは、このとき、ユーハイムの身分は「ドイツ人捕虜」。日本の捕虜収容所へ連行されていたのだ。
第一次世界大戦時。ドイツの占領下にあった中国・青島で、彼は菓子職人として働いていたが、日本軍により青島が陥落。彼は捕虜として日本へ連行され、大阪俘虜収容所へ収監された。その後、広島へ移送されていたときに、ドイツの菓子を紹介するチャンスが訪れたのだ。
当時、材料集めに苦労したというが、日本人好みの味付けで焼き上げ、完成させたバウムクーヘンは、即売会の会場で評判を呼び、瞬く間に売れていったという。
1918年、第一次世界大戦は終結。日本にいたドイツ人捕虜は解放され、大半の捕虜がドイツへと帰国する中、カールは日本へ残ることを決めた。
東京・銀座の喫茶店に菓子職人として就職。青島にいた妻と息子も日本へ呼び寄せ、3人でこの喫茶店の三階で暮らし始めたのだが…。
日本に残ったドイツ人
ユーハイムがバウムクーヘンを日本へ伝えたように、日本残留の道を選んだドイツ人の捕虜が、その後、日本に残したドイツ伝統の食文化や芸術、スポーツなどは少なくない。
日本でロースハムを発明し、普及させたアウグスト・ローマイヤー(1892~1962年)、パン職人のハインリッヒ・フロインドリーブ(1884~1955年)も、そんな一人だった。
「シキシマ」の愛称で知られる敷島製パンの初代技師長として日本に残ったローマイヤーは、その後、神戸市内で「ジャーマンホームベーカリー フロインドリーブ」の前身となるパン屋をオープンしている。
NHK連続テレビ小説「風見鶏」(1977~1978年放送)のヒロインの夫は彼がモデルだ。
また、第一次世界大戦中のドイツ人捕虜と日本軍人との交流を描いた映画「バルトの楽園」(2006年)も、ユーハイムのようなドイツ人捕虜の知られざる功績を伝える興味深い作品だ。
収容所の松江豊寿所長を日本のベテラン俳優、松平健が、独軍少将をドイツの重鎮俳優、ブルーノ・ガンツが演じた実話で、製作当初から話題を集めた。
舞台は徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所。史実に基づき、鳴門市内に、この収容所がセットで再現された。
撮影現場を取材するため、筆者はこのセットを訪れたが、その臨場感に圧倒された。
松江所長は、収容所のドイツ人捕虜を丁重に、人道的に接し、地元住民と接する機会を与え、日独の文化交流を深めることに貢献したことで知られていたが、忠実に再現されたセットを見て、その理由が納得できた。
収容所の中にはパンを焼くベーカリーやハム、ソーセージなどを製造する調理室などが整備されていた。収容所の中で、ドイツの職人たちは自由に働き、地元の日本人たちにその技を教えていた。そんな光景が目の前で展開されていたのだ……。
当時、日本の他の捕虜収容所も同じで、ユーハイムやローマイヤー、フロインドリーブたちドイツの職人は収容所でその技術を磨き、解放された後も日本に残って、この食文化を伝えようとした。
1918年、「第九」で知られるベートーヴェン作曲の「交響曲第九番 歓喜の歌」が、日本で初めて演奏された。この板東俘虜収容所で、ドイツ人捕虜たちの手によって…。
捕虜生活の中で活路を見い出し、「日本にドイツの菓子を普及させよう」と覚悟を固めたユーハイム一家だったが、その行方には数々の試練が待ち受けていた。
=つづく
(戸津井康之)