2月号
神戸とともに150年|1872年創業 永田良介商店のあゆみと未来
1872年創業永田良介商店のあゆみと未来
流麗な木目と、渋い色合い。時を経てなお美しさを増し、堅牢で使い勝手も良い家具を作り続けてきた永田良介商店は、明治から令和へと神戸家具の灯火を守り、今年で創業150年。
老舗のバトンを繋ぐ五代目・六代目が、歴史と未来について語る。
はじまりは古道具屋
─創業者はどんな方でしたか。
耕一 初代の良助は美濃の川島(現在の各務原市)の農家の長男で、訳あって神戸に出て仕事を探し、目端が利いたのでしょう、居留地内のイギリスの商館の雑用係になりました。そのうちに商館の不要品を居留地の外に持って出て商うようになり、元町1丁目の裏通りに道具店を開いたのが明治5年(1872)です。外国人は基本的に居留地や雑居地の外に出られませんでしたから、外の世界と取り次いでいたみたいです。
─そこから家具へ。
耕一 そういった仕事の中で、家具が特に商売になったのでしょうね。母国へ帰るなど商館で不要になった家具を修理して売っていたのがはじまりです。それと同時に、テーブルセットで椅子が1脚足りないといったような複製のニーズも発生し、そこから製造がはじまっているんです。
─どなたが作ったのですか。
耕一 当時たまたま奥さん(つれ合い)の遠縁に和船の船大工をしていたのがいて、洋船に変わっていく中で仕事を失っていたので、お願いして作りはじめました。明治10年(1877)頃ですのでどなたかに教えてもらう訳にもいかず、分解して構造を確認しながら試行錯誤の作業だったのでしょう。箱物は日本古来の指物の技術をベースにしていたみたいです。
泰資 明治15年頃のガイドブック的な文献に家具屋が数軒紹介されているので、当時家具の需要が伸びていたようです。創業5年で製造までいったのは、それだけニーズがあったからでしょうね。
耕一 開港した街は5か所あり、それぞれで家具屋は発生していますが、消費地がないと続かないですよね。
泰資 神戸は需要が特殊で、阪神間では日本人も洋館を建てたり洋間を設けたりして、しかもその期間が長かったのでオーダーメイドの神戸家具が続いていったのでしょうね、大量生産に流れることなく。
三代目がデザインを確立
─二代目はどんな方でしたか。
耕一 二代目の永田良介は信州・伊那の出身で、もともと靴屋でしたが、初代良助に見込まれ店を継ぎました。ものすごくバイタリティーのある人で、開発する能力が高く、商売が広がっていきました。船の家具や装飾をやりはじめたのも二代目ですが、金額も規模も大きいし、ちょうど日本の造船業が上り坂の時でしたから、それでずいぶんと繁盛したようです。その頃、家具の出来が本場をしのぎ、輸出もしていました。
─人材育成にも力を入れたそうですね。
耕一 特にデザインができる人間を欲していました。ですから職人を映画館へ行かせて、洋画のシーンに出てくる家具のデザインを勉強させたそうです。また、京都高等工芸専門学校(現在の京都工芸繊維大学の前身)に出向いて優秀な人材を確保しましたが、そのうちの一人が三代目です。
─三代目はどんな方でしたか。
耕一 永田良介商店のスタイルをきちんと整理したのが三代目、永田善従ですね。昭和5年(1930)にヨーロッパへデザインを学びに行くのですが、シベリア鉄道経由でベルリンに着いたら、神戸のお客さんとばったり会ったそうです。神戸らしい話ですよね。
泰資 技術は二代目の頃にある程度確立されていたのですが、それ以前の家具はいま見てもうちのかどうかわからないものがあるんです。デザインが統一されていないんですよ。そのベースを固めたのが、ヨーロッパで学んだ三代目の時代なのだと思います。
耕一 独特の墨ぼかしの技法も訪欧の後、昭和10年頃からです。でも、ヨーロッパにはこういう塗り方をしているところはあまりないんです。オークは使い込むと木目が際立ってくるので、それを再現しようと考えたのでしょう。
泰資 ですから角の方は濃く、真ん中が薄く、敢えて濃淡を出したのでしょうね。全体を濃く塗ってから落としていくのですけれど、そこに職人の癖が出て味になるんです。
耕一 ところが、三代目は戦死してしまうんですよ。終戦2か月前に沖縄で。店も空襲で燃えてしまいました。
─四代目は耕一さんのお父さんになるんですよね。
耕一 はい。四代目の永田良一郎は戦後の焼け野原の中から事業をリビルトしました。戦地から職人や店の従業員が復員し、三代目の妻や、当時は二代目も健在でしたので、一丸となって商売を組み直した訳ですね。その後、高度成長期になると、富裕層は嫁入りの時にうちか不二屋さんの家具を一式揃えるようになり、飛ぶように売れたそうです。
伝統で新たな境地を拓く
─永田良介商店が神戸家具発祥の店なのでしょうか。
泰資 明治初期に船大工や宮大工を頼って家具をつくっていたのはうちだけではないので、最初だと言い切る自信はないです。うちを含めたいろいろな店が家具づくりを続け、神戸の地場産業として大きくなっていったのだと思います。
─神戸家具の定義は何ですか。
泰資 材料や色目、デザインが統一されている訳ではないので、特に定義はないんですが、時代の流れで、全国の家具の産地が効率化や大量生産を求めていく中で、歴史的にオーダーを積み重ねている産地は神戸くらいしかないんです。そこが差別化できるところではないでしょうか。
─永田良介商店の家具の特徴はどんな点ですか。
耕一 難しいですね。でも、古い家具でうちのかどうかを確認するポイントは、彫刻のまわりの縁です。同じ大きさで同じ格好で作ってあるんです。あとは上の角の飾り彫りですね。風見鶏の館に寄付された大正末期の家具がうちのではないかと確認しに行ったのですが、ちゃんと飾り彫りがありました。
─乾邸やジェームス邸、ヨドコウ記念館、小磯良平のアトリエなど、阪神間を代表する文化財には永田良介商店の家具がありますね。
耕一 でも、上手に手入れしておかないといけないので、乾邸は何年か一度にチェックさせてもらっています。小磯先生とは親しくさせていただいて、私の妹は肖像画を描いていただきました。
─永田良介商店の家具は100年使えるといいます。
耕一 それは修理することが前提です。当然、何十年も使えば痛みます。
泰資 「修理をおろそかにするな」というのが、うちの伝統です。家具屋としては修理よりも新品を売った方が儲かるんですが、それでも売上げの半分程度は修理なんですよ。家具が古くなってきたとお客さんに相談されたときに、「買い替えましょう」という提案をすることは基本的にありません。次の住居に向けて合わないところがあっても改造できますし。
─一方で、新しいことにも挑んでいます。
泰資 家具のデザインそのものを大きく変える気はありませんし、昔と同じものを作り続けることと修理は続けていきます。でも、それ以外のところで新たなチャレンジをしていきたい。昨年、店舗をリニューアルして、内装関連の提案もできるようショールーム機能を充実させました。インテリアは家具単体でなく、トータルで提案することが増えているので、建築の段階から関わることができるよう、住宅メーカーで勤務していた経験を生かしていきたいですね。また、ファブリックでトレンドを採り入れたり、神戸レザーというブランドで違う軸を設けたり、伝統の技術を応用して新たなことにどんどん挑んでいきたいです。
─逆に、課題はありますか。
耕一 どうやって職人を養成していくか。商売はすでに六代目に託していますが、これに関しては私も一緒になって次への布石を打っていかないといけないですね。作る人、直す人がいなくなったら成り立ちませんから。
─150周年を記念した企画をおこなうそうですが。
泰資 4月になったら店の軒先にのれんがかかります。また、復刻家具や他社さんとのコラボも検討中です。ぜひご期待ください!
■永田良介商店
電話:078-391-3737
神戸市中央区三宮町3-1-4
11時~18時
定休日 水曜日・ 第1第3第5火曜日
http://www.r-nagata.co.jp