9月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑤嘉納治五郎前編
日本の柔術は世界の柔道へ…
未来を見据えた嘉納治五郎の視座
衰退の危機からの起死回生
「姿三四郎」に「柔道一直線」、そして「YAWARA!」…。柔道をテーマにした小説や映画、漫画、アニメなどの傑作は多い。だが、この人がいなければ、柔道が日本に定着し、世界へ広まることはなかった。古武道の柔術を近代柔道として確立。五輪に採用される世界のスポーツ競技へと広めた講道館の創始者、嘉納治五郎(1860~1938年)。神戸で生まれ育った彼の照準は、常に世界へ、そして未来へと向かっていた。
「世界に柔道を広めたい。君にその使命を託す!」
師匠の嘉納から、こう命じられた弟子は渡米。日本柔道を広めるために世界を渡り歩きプロボクサーやプロレスラーたちと異種格闘技戦を繰り広げ、その後、ブラジルへと渡った…。
近年、世界最強のプロ格闘技の一つとして競技人口を増やしているブラジリアン柔術を創設したグレイシー一族を指導した男こそ、嘉納が最も信頼を寄せ、日本から送り出した弟子、前田光世だ。
柔術の話から書き始めたことには理由がある。
大学時代に柔術を習得した嘉納が、「このままでは柔術の歴史、伝統は途絶えてしまう」と危機感を覚え、1882年、22歳のときに確立したのが講道館柔道だ。戦国の戦などで技が伝承された実践重視の柔術は、明治の文明開化後の日本では、危険で残酷な古武道として、人々から嫌われ、廃れかけていた。神戸で過ごした中高生時代、柔術を学びたいという嘉納の願いは、親の猛反対により、叶わなかった。だが、嘉納はこの〝危険な柔術〟を安全面などでルールに改良を加え、さらに、強さだけでなく、礼儀を重んじる武道として、そのイメージも一新させた。日本人にさえ疎んじられ、消滅の危機にあった柔術は、五輪でも採用される、世界の人気スポーツ競技として生まれ変わっていくのだ。
近年、元金メダリストの吉田秀彦ら講道館を代表する嘉納の弟子たちが、総合格闘技の試合で、ブラジルの柔術家たちと熾烈な戦いを繰り広げている。
ブラジルで先祖返りした柔術が、現代の日本柔道家にとって最大のライバルとして蘇ることを嘉納は想像しただろうか。
世界が憧憬する柔の道
嘉納は1860年、現在の神戸市東灘区に生まれた。同市内の育英義塾(現育英高校)から東京大学に進学後、親から反対されていた柔術を習い始め、その魅力にのめり込んでいく。
小説「姿三四郎」の主人公のモデルとなったのは、嘉納の最強の弟子の一人、西郷四郎だ。身長約150センチ、体重約50キロ。小兵ながら、柔道の大技で次々と大男たちを投げ飛ばしていく姿は三四郎そのものだったという。
幼い頃から病弱で、身体が小さかった嘉納は「柔よく剛を制す」柔術を体得し、講道館柔道へと昇華させた。強くなりたい弟子たちがこぞって嘉納を慕い日本各地から集まった。礼儀を重んじ、心身を練磨することで強くなる〝柔の道〟は、多くの人の心の中に浸透し、小説や映画のテーマにも好んで選ばれるようになる。
米映画「インクレディブル・ハルク」(2008年)で、超人ハルクを演じたハリウッドスター、エドワード・ノートンが来日した際、取材した。
精神をコントロールするために、その教えを受けようと、主人公がブラジリアン柔術の道場へ通うシーンがある。そこで、前田光世が柔術を教えたグレイシー一族が生んだ最強の柔術家、ヒクソン・グレイシーが、道場主役で映画に登場する。
ノートンに「劇中、ヒクソンが出てきたので驚きました」と話すと、彼は笑顔でこう答えた。「実は撮影現場に彼がいて一番驚いたのは私かもしれない。脚本には〝道場主はヒクソンのような武道の達人〟とだけ書いていたんですから」。彼は同作の脚本家でもある。
「ヒクソンは嘉納がいなければ、存在しなかったのだ…」と彼に伝えたかったが、博学な彼なら、その事実を知っていただろう。大阪の海遊館の巨大水槽を建設するために米国から来日した祖父とともに、俳優になる前、大阪で一時期、暮らしていた彼は親日家としても知られているから。
実の親にも反対された〝マイナーな柔術〟が、時を経て日本の裏側のブラジルで生まれ変わり、ハリウッド映画にも登場する〝メジャー格闘技〟となる…。
神戸生まれの嘉納が柔道へ懸けた信念は国境や世代を超え、世界で受け継がれていくのだ。
=後編へ続く
戸津井康之