5月号
菅原洸人さんのこと
出石アカル
もう半年にもなるがわたしは未だに胸の中に埋めようのない穴がぽっかりと空いたままだ。神戸で多くの人に親しまれた山形生まれの洋画家菅原洸人(すがわらこうじん)さんがお亡くなりになったのは昨秋のこと。91歳だった。
画伯に対してわたしのような軽輩が「洸人さん」とは失礼だが、40年以上にもなるおつき合いだからお許し下さるだろう。
葬儀は北野坂のパブテスト教会で執り行われた。若き日の洸人さんが放浪の末たどり着かれたのが、この教会裏の空き地。昭和28年のこと。そこに掘立小屋を建てて神戸の人になり、この教会で洗礼を受け、結婚式を上げ、そしてこの教会での葬儀告別式である。
式は予め生前に収録されていたお別れのビデオ放映で始まった。タイトルは洸人さんの個性的な字で「故菅原洸人」と。「わたしの告別式に来て頂きありがとうございます」というあの人懐こい声で始まり、ご自分の一生を簡略に述べながら約15分、交わりのあった人々への感謝の言葉を丁寧に語られる。時にはユーモアを交え、会場からは笑い声さえ起こる。そして最後の言葉は「それではみなさん、さようなら、さようなら」であった。
洸人さんのお姿に接した最後は、ご入院中の9月26日だった。訥々とご自分の人生を語られ、「自分でもよくやってきたと思います」としみじみ。
そう、洸人さんの人生、お若いころはまことに熾烈な体験を重ねておられる。その一端を本誌二〇〇五年一月号に「洸人さん」と題してわたし書かせて頂いている。その書き出し。放浪中の和歌山でのこと。洸人さんからの聞き書きである。
「海岸の洞穴に住んでたの。目の前には太平洋の大海原。入口にムシロを垂らしてワラや海草を敷いた寝床に横になるとね、のびのびとしたもんだった。波の音が子守唄みたいでね。朝は海水で顔を洗って歯を磨くんだ。岩場のカニに『おはようさん』と声をかけながらね」
放浪の画家と呼ばれた所以である。リヤカーに生活用品と絵の道具を積み、絵を売り歩きながらの放浪。やがてたどり着いたのが神戸というわけだ。
洸人さんの波乱万丈の人生については、自叙伝『四角い太陽』(二〇〇四年刊・ギャラリー島田)に詳しいのでこれ以上書かないが、その苦難の道があったからこその底抜けの優しさにあふれておられたのだと思う。
先にも書いたようにわたしが洸人さんを知ったのはもう40年以上もの昔。実は遠い親戚なのである。初めはご案内を頂いて大阪の阪急百貨店での個展を観せて頂いたのだった。庶民的であたたかなその画風に即座にファンになってしまった。そしておつき合いするうちに絵だけではなくそのお人柄にも惚れ込んだのだった。
その後わたしは拙いながら文を書くようになり、洸人さんはわたしのファンにもなって下さった。いつもわたしの書くものを読んで下さり、感想を下さった。それは終生変わることなく、最後にお見舞いした病院の枕辺にもわたしの詩作品が載った同人誌を置いて下さっていた。
わたしが初めての詩集を出す時には「表紙絵を描かせて下さい」と申し出て下さり、素敵な挿絵も描いて下さった。
また後に本誌にエッセーを連載させて頂いた折には毎号おしゃれな挿絵を提供して下さった。いつかご恩返しをと思いながら未だにそれは果たせていない。
このほど奥様のよ志子様からお便りを頂いた。ご丁寧な言葉が綴られていて、「洸人の古いメモを整理していましたらこのようなものが見つかりました」と。
同封されていたのは短歌の数々。洸人さんが歌を詠まれるのは知っていたし、何度も読ませて頂いていた。しかしこれは初見のものだった。晩年の作で、そっと心の内を述べられているもの。わたし短歌は門外漢でよく解らないが、洸人さんのこれらの歌は解る気がする。うち四首。
成就せし ことの少なし
不覚にも
齢重ねて また秋がくる
真白の 画布に向いて 形象を
決めんと筆もつ 時にときめく
会場に わが絵並べ 帰りきて
襲いくるこの 憂うつは何
うつし世は かなしきものか さりながら
この一日を 熱く生きたし
今ごろ洸人さんは天国で、心ゆくまで好きな絵を描いておられることだろう。