10月号
触媒のうた 44
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字・六車明峰
五十数冊の著書をお持ちの宮崎翁だが、中でも『環状彷徨』(一九七七年・コーベブックス)は名著の誉れが高い。先年亡くなられたが、あの辛口の評論家、谷沢永一氏が出版記念会に出席して賛辞を贈ったという。わたしも机辺に置いて折に触れお世話になっている。しかし翁は、発行以降92歳の今も、新資料加筆改訂を続行しておられる。頭を垂れるほかない。
「ふるさと兵庫の文学地誌」とサブタイトルのついたその本の中に野坂昭如(あきゆき)の名が何度か出てくる。
野坂昭如=一九三〇年~。肩書きは、作家、歌手、作詞家、タレント、評論家、政治家など枚挙にいとまなし。
見かけは大酒飲みの無頼派。映画監督大島渚との乱闘事件など、この人については数多のエピソードがあり解説するまでもないであろう。直木賞を受けた『火垂るの墓』をはじめ、氏の小説は、わたしも若いころから親しんできており、その個性的な体言止めの文体を戯れに真似たりしたことがある。
『環状彷徨』にある野坂に関する一節。
《省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻をつき…
と筆を下ろされているのは第五十八回直木賞を受けた野坂昭如氏の『火垂るの墓』(昭和四十二年)だ。
昭和二十年九月二十一日、国鉄三ノ宮駅構内で一人の戦災孤児が死んでいった。栄養失調による衰弱だった。その少年―清太の遺体からドロップの罐が出、夏草茂る広場に捨てられるが、その中から小さな骨片がこぼれた。一月前やはり栄養失調死した清太の妹、節子のものだった。》
宮崎翁、このように書き起こしておられるが、野坂の略歴を次のように紹介しておられる。
《その清太と二重映しになる作者は昭和五年、後の新潟県副知事野坂相如(すけゆき)の次男として生れ、神戸の実業家張満谷(はりまや)善三の養子になり、昭和二十年六月五日、灘区中郷町三丁目八番地の自宅が空襲で焼失するまで神戸に生育した。市立成徳小学校、神戸市立一中出身。張満谷家は、三島由紀夫の実家平岡家と同じく印南郡志方町字平岡だった。
空爆で養父を亡くし、養母は負傷、養女の妹恵子も、やがては栄養失調で死に、恵まれた家庭生活から一瞬に、彼は浮浪児同然の身の上となった。その体験が『火垂るの墓』をはじめとする野坂文学の原体験だった。そして三ノ宮駅の戦後風景がその文学の原風景なのだ。彼はしばしば神戸へ帰る。「犯罪者が犯行の現場にもどりたがるように」と氏は言う。そのことによって過去の焼跡の世界を確かめ、拾い集め、そこに生きるのだ、と。昭和五十一年重ねて自伝小説『一九四五・夏・神戸』も出た。》
九百人ほどにものぼる人名索引があるこの本の中でこれは丁寧な紹介である。
その野坂氏、最近はマスコミに登場する姿を見ない。というのも、二〇〇三年に脳梗塞で倒れられたのだ。
氏のホームページを覗いてみた。するとトップに「ただいまリハビリ中」とある。「旅の果て日記」と題されたブログは、二〇〇三年五月九日から更新がない。その日記。
《5月9日 曇。4時am起。ゲラ手入れのうち、すべて書き直したくなり、ボールペン放置して、ぼんやり。6時am、庭の雑草むしり取る、道具は用いず指で引き抜く。50年近い以前、禅寺で半年草むしりをしていたから、いちおう手慣れたもの。合間に素振り用木刀ゆっくり振る、すぐ息が切れて情けない。気持ちばかり焦って、小説は書けない。(略)昭和ヒトケタ、何度も書きかけては挫折、金井美恵子さんのオハコを借りれば、「ヘトヘト」。なんとしてでも書く。講演会の依頼しきり、身のほど知らずながら引き受けて、とにかく若い皆さんに、どう受け取られようが、しゃべるのが、役目だろう。夜、手紙を書く、結局、徹夜。》
この日記がネットに公開されたのが5月21日。そして脳梗塞に襲われたのが5月26日だ。それからはリハビリしながら、ラジオ番組のためのちょっとした原稿を書いたりの日々らしい。なんとかもう一度、氏のお元気な姿を見たいものである。
その野坂と翁の直接の出会いは一度だけだと。
「ぼくの本を読んで下さってましてね、一度新聞社へ訪ねてきて下さいました。神戸のことなら宮崎に聞けば何でも分かると思われたんでしょう。お会いした途端に、あの独特の口調でぼくを質問攻めにしたんです。よほどスケジュールが混んでおられたんでしょう、自分の聞きたいことだけ聞いたら、サッサと帰って行かれました。ぼくの方からはなんにも取材するひまがありませんでした」
お二人の姿が見えるようである。ところが後日、野坂から贈り物が届いたという。
「ぼく宛てに高価なものを送ってきて下さいました。一介の新聞記者風情(ふぜい)に対してよく気のつく人だなあと思いましたよ」
テレビで見ていた野坂とは大いにイメージが違う。翁から有益な情報を得られたのだろうが、こんな心配りが出来る人だったとは、わたしは思いもしなかった。
出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。