2月号
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有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾参~ 山名 宗全 (やまな そうぜん) 1404~1473
今年は太平洋戦争終結から80年でございます。つまり戦後80年になりますが、京都では事情が違うようで。と申しますのもあちらで「戦争」とは1467年の応仁の乱のことで、信長の時代に京都に定着した一族ですら戦後からの田舎者、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と小馬鹿にされているとかいないとか。
そんな応仁の乱で、西軍の総大将だったのが山名宗全です。山名氏はもともと新田氏の流れを汲むグンマーな一族ですが、宗全やその父の時煕(ときひろ)の頃は但馬を領国としていました。つまりお隣は赤松氏の播磨。山名氏はこの温暖で豊かな播磨をどうしても欲しかったようで。
一方の赤松氏は本連載其の拾四でご案内の円心と則祐(そくゆう)、そして義則の3代で播磨守護の地位を盤石に。ところが義則が没してその嫡男の満祐(みつすけ)が赤松の跡目を継ぐも、将軍の足利義持に播磨守護職を剥奪されます。満祐は激怒し都から播磨へ去るのですが、これを千載一遇と時熙が攻めていきます。が、満祐と幕府が和解して攻略失敗…。
そのうち義持が死にくじ引きで義教(よしのり)が将軍になると、激しい気性ですぐ粛清する恐怖政治に。こらアカンと1441年、満祐が義教を自邸に招き誅殺!いわゆる嘉吉(かきつ)の乱が勃発し、満祐は播磨に逃亡。そうなると将軍殺しの大罪人ですから討つべし!となり、宗全も報奨目当てに勇んで出陣、但馬からのアタックで満祐の首を取り念願の播磨守護職に。ところが明石、美嚢(みのう)、加東の3郡は幕府軍に加担した赤松満政に預託されちゃう。
これに納得いかない宗全は幕府にゴネて3郡をゲットすると、1445年には但馬から満政がいる播磨へ突撃。満政は赤松一族の有馬持家を頼り有馬へ逃げます。が、結局持家に裏切られ討たれちゃった。この際、宗全率いる山名軍は有馬に侵入、無慈悲に温泉街を焼き払い、大胆不敵にも温泉寺のお堂の下に埋められていた寺宝の経典を暴くという狼藉(ろうぜき)を働いています。
その後も赤松正則が盛り返すなど山名と赤松の小競り合いが続きまして、この諍(いさか)いが応仁の乱にも繋がっていくのでした。
ところで先日、阪神・淡路大震災から30年を迎えました。震災で有馬も少し被害がありましたが、その400年前の慶長地震では壊滅的な打撃を受けております。ほかにも水害土砂災害、火災に飢饉にコロナと有馬はたびたび災害に見舞われましたが、大きな戦災に遭ったのは宗全の襲来ぐらいなもの。神仏おはしますこの地を襲う不届き者など想定していなかったでしょうから、当時の有馬の人たちは騒然としたことでしょう、攻めてきたのが宗全なだけにね。
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「宗全」とは出家後の法名で、諱(いみな)は「持豊(もちとよ)」でしたが、本稿では「宗全」で統一します