2025年
2月号

⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.51 小説家 
森見 登美彦さん

カテゴリ:文化人

新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第51回は、一昨年、作家デビュー20周年を迎え、今、最も新作が注目される小説家、森見登美彦の登場です。

文・戸津井 康之
撮影・服部プロセス

新作を書く前はいつも不安…
謙虚な作家の恋文小説から見える書く技術

作家生活20年の自信と不安…

今から22年前の2003年…。
鈴木光司や恩田陸、小野不由美ら名だたるベストセラー作家を輩出してきた登竜門『日本ファンタジーノベル大賞』を獲得。その受賞作『太陽の塔』で鮮烈な文壇デビューを飾った。
それから22年…。
「作家としてデビューしたとき。20年経ったら、きっと〝ベテラン臭漂う、風格をたたえた大作家〟となっている自分の姿を想像していたのですが、いざ、現実に20周年を迎えてみると…。まったく想像とは違いましたね」と森見登美彦は苦笑しながら、今の心情を素直に吐露した。
とはいえ、現役大学生として作家デビュー以来、46歳まで文学界の第一線で書き続けてきた。
「現実の今の自分は、かつて学生の頃に思い描いていた作家像とは違う」と、目の前で包み隠さずに本音を打ち明けるが、一方で、創作への情熱は変わってはいない―と、その澄んだ瞳が物語っている。
威張ってもいいはずの錚々たる実績を残しながらも決してそうはならないのは、純真に創作に向き合い続けてきたからに他ならない。
物憂げに気弱な本音を明かす一方、自身が描く小説の作風同様に、「ベテランしゅう漂わせ…」や「風格漂う大作家…」など絶妙に、冗談を交えながら飄々ひょうひょうと語る、その虚勢を張らない真摯な眼差しからは、作家生活20年で培った余裕も漂う。
デビュー間もない頃、「まったく原稿が書けなくなるスランプがありました」。そう以前の取材で語っていたので、その後、順調に新作を繰り出す活躍ぶりを見ていて「無事に脱したのですね」と問うと、意外にも「いえ、実はまだスランプは続いています」と答えた。
『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』、『有頂天家族』、『ペンギン・ハイウェイ』など手掛けた小説が相次いでテレビアニメや劇場版アニメとして映像化や舞台化されるなど、活字の世界を超えた〝メディアミックスのヒットメーカー〟と呼ばれる押しも押されぬ人気作家となったにもかかわらず…。
取材中、そんな売れっ子作家の驕りは微塵も見せない。言動から謙虚さがこぼれ出る。
「謙虚?いえいえ。本心です。いつも一作書き終えた後、次の作品は書けるのだろうかと不安でしょうがない。デビュー以来、ずっと、この思いは変わっていませんから」

書簡体に込めた思い

発刊されたばかりの文庫の新版『恋文の技術 新版』(ポプラ社)は、「これまで書いたことのない手法に挑んだ」という意欲作。全編、文通相手宛ての手紙で綴られていく書簡体小説の形態で書かれている。
18世紀、仏など欧州で流行った小説の一つの形態だが、日本では太宰治の『パンドラの箱」や三島由紀夫の『三島由紀夫のレター教室』など少数発表されているだけで、近年、この手法に挑む日本人作家は珍しい。
「夏目漱石の書簡集を読んだのですが、これが、とても面白くて…」
この『漱石書簡集』(三好行雄編、岩波文庫)は、漱石が幼馴染の親友、正岡子規や妻、弟子などに宛てた手紙158通を集めたもの。
「いつか、この形式で小説を書きたいと思っていたんです」と、初めて書簡体小説に挑んだ理由について教えてくれた。
クラゲの研究のため京都の大学から能登の水産研究所へ学びに来た大学院生、守田一郎が主人公。親友や知人、妹、大学の先輩で作家、森見登美彦らに宛てた手紙で綴られる。
地方での一人暮らしの寂しさから「文通武者修行」を始めた守田は、森見に「恋文の技術」を伝授してほしい、と手紙を書くが…。
フィクションだが、森見本人も登場するだけに、「この部分は本当の話では?」と想像しながら読むのも楽しい。
たとえば守田の手紙にこんな一節がある。

《大学を卒業された森見さんの、上京区・左京区をまたにかけた、主に机上のご活躍、つねづね遠巻きに拝見しております。森見さんが綴られるへんてこな文章は、かつてあの部室の片隅にあったノートに記されていた文章と瓜二つ、俺を青春の暗がりへ引きずりこんだ元凶が全国津々浦々へ垂れ流されることになろうとは、いったい誰が想像し得たでしょうか》

この書簡体小説が紡ぎ出されていく着想はどこから発しているのか?
「大学時代、ライフル射撃部に入っていたのですが、部室に連絡事項などを引き継ぐ『公用ノート』と、部員たちが思ったことを何でも自由に書いていい『私用ノート』がありました。私が部員の話などを毎日、面白おかしく『私用ノート』に書いていると、部員たちが皆、とても喜んで読んでくれて。このノートが実は原点になっているんです」
これこそが、守田が先輩の森見へ宛てた手紙に出てくる〝部室のノート〟ではないか…。
2009年、『恋文の技術』は単行本として発刊された。
驚くのは文芸誌での連載時には、守田の滞在先は能登ではなく広島だった。つまり単行本にする際、舞台を能登に書き直したのだ。大幅な加筆、修正が必要だったはずである。
「連載が終わった後、能登半島を旅行したのですが、そのとき、この小説の舞台は能登の方がずっといいと思ったんです」
単行本では「のと鉄道」の能登鹿島駅近くに守田が通う水産研究所が建っている。「単行本のための取材でこの駅を訪れ、とても素敵だったから」と変更を決めたのだ。
2011年刊行の文庫版は28刷を重ね、単行本から新版まで通算26万部を超えるロングセラーとなったのは、「納得いくまでとことん書き直す」この徹底して作品と向き合う作家としての真摯な姿勢の賜物だろう。
文庫の新版は初の書籍化から15年を記念し、刊行された。
新版では新たな章「我が文通修行時代の思い出 『ビッグな男になる方法』出版十五周年記念パーティ コヒブミー教授(アイダホ州立大学)のスピーチ」が収録されている。
本編では登場しない米国人、コヒブミー教授の京都での留学時代の体験談のスピーチ全文を、「新版に合わせ、何か新しい物語を入れたかったから」と書き下ろした。
京都には恋文道場があり、恋文を書くために日々道場生は厳しい修行に励んでいる…。コヒブミー教授の涙の恋文武者修行の体験談に読者は〝抱腹絶倒〟するに違いない。
書簡体に挑んで15年。『恋文の技術』が確実に進歩していることを証明し〝森見ワールド〟へ読む者をぐいぐいと惹き込んでいく。

謙虚さに秘めた覚悟

この日の取材は、奈良公園の猿沢池に近い奈良市内で行われた。
1979年、奈良県で生まれ、京都大学へ進学。在学中に作家デビューした。
「今、奈良市内で暮らしています。毎日午前9~10時頃から原稿を書き始め、午後1~2時まで執筆。それから昼食をとった後、近くを散歩したり、好きな読書をしたり…」
高校まで奈良、大阪で暮らし、ふだんは関西弁だ。森見ファンの〝神戸っ子〟向けに、神戸の思い出を聞くと「学生時代、祖母のために家族で有馬温泉へ旅行に出掛けた楽しい思い出があります」と振り返った。
関西で育った子どもなら一度は耳にしたあの懐かしい有馬温泉のテレビCMを口ずさみながら「この旅行以来、有馬温泉が好きになりました」と語る。有馬温泉ではないが、万城目学ら仲の良い作家4人で5月に上梓したアンソロジー「城崎にて 四篇」は豊岡市の城崎温泉を4人で訪れ、城崎をテーマに書かれた短編集だ。
これまでは京都を舞台にした小説が多いが、「いつか神戸を舞台に書けたら…」とも。 
数年前、語っていた印象的な言葉がある。
「新作の執筆にとりかかるとき、完成した作品の着地点が大体、見えるものですが、その着地点ではつまらない。書いている途中、想像していた着地点を越えるときがある。その瞬間、この作品は世に出すべきだと思う」
では、今はどう考えているのだろう。
「今は、イメージした着地点どおりに書くことができる。でも実は、それこそが現在の悩みでもあるんです」
この答えを聞きながら「それは作家として成熟した証では?」と問うと、「いえいえ、そんなふうには思っていません」と謙虚に否定された。その物憂げな表情は、小説に正解はない…とゴールのない到達点を目指し、突き進む求道者のように見えた。
「新作に挑む際の不安は新人の頃と変わっていません。いや、今の不安はそれ以上かもしれません」
それでもひたすら書き続ける。謙虚な姿勢は、不安と真正面から向き合い、未踏の着地点を目指す強い覚悟のようにも思えた。

『恋文の技術 新版』
869円(本体790円) ポプラ社

森見 登美彦(もりみ とみひこ)

1979年、奈良県生まれ。2003年、京都大学在学中に執筆した『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。07年『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞を受賞、第4回本屋大賞2位を獲得した。10年『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞、14年『聖なる怠け者の冒険』で第2回京都本大賞を、17年『夜行』で第7回広島本大賞を、19年『熱帯』で第6回高校生直木賞を受賞。他の著書に、「有頂天家族」シリーズ、『四畳半タイムマシンブルース』『シャーロック・ホームズの凱旋』など多数。

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