2月号
映画をかんがえる | vol.35 | 井筒 和幸
ニューヨークでのテレビ番組のロケ仕事も終わり、一息ついてるうちに、88年も年の瀬を迎えていた。でも、ボクはいっぱしの映画監督でございという顔で街を闊歩していたわけではない。次回作のネタが見つからず、何を作ったらいいのか、井上陽水の歌じゃないが、カバンの中も机の中も探したけれど何も見つからないし、発想が枯渇したか、映画渡世そのものに悩んでいたようだ。
その年末に観たのが『ミッドナイト・ラン』(88年)だ。主演はロバート・デ・ニーロ。この役者が出るものは演出の勉強にもなる。欠かさず見てきた。『キング・オブ・コメディ』(84年)という、漫談ショーで有名になりたい偏執狂が巻き起こす誘拐騒動劇も傑作だったし、イタリアの20世紀史を描いた5時間余りの長編、『1900年』(82年)をカレーパン一個とコーヒーで一心不乱に見たこともあった。
『ミッドナイト・ラン』はとても爽快で、観終わっても気分が良かった。保釈後に逃亡した容疑者を捕まえにアメリカ中を駆け回るバウンティハンター(賞金稼ぎ)に扮したデ・ニーロは役になりきっていた。そんな職業がアメリカにあるのも初めて知った。彼は元刑事の設定だ。役者が役になりきるには技がいる。彼は刑事も未経験だが、見事にこなしていた。敵のシカゴマフィアやFBI捜査官の役者陣もマヌケな役柄を競い合っていた。デ・ニーロが別れた妻と娘が暮らす家に金を借りに立ち寄り、娘が「この貯めたお金を使って」と差し出すと、彼が「いや、それは貰えないよ」と断ってサヨナラする場面は切なくてグッときた。こんな職人技の映画はとても撮れないなと思うと悔しかった。パンフレットを読むと、監督はエディ・マーフィ主演の『ビバリーヒルズ・コップ』(85年)を撮った51年生まれの若手だ。なんだ一つ上か、なら負けてたまるかと思い直したものだ。
年が明けて、ボクの『ガキ帝国・悪たれ戦争』(81年)の時に、頭をモヒカン刈りにして熱演した若い役者の大阪の実家に遊びに行って一泊させて貰った翌朝、そのお母さんから「カントクさーん、天皇さん、死なはったんですわ」と声がかかって目覚めたのを憶えている。帰りがけに、道頓堀をうろついてみると、前年からの「歌舞音曲の自粛」とやらで出歩く人も僅かで、異次元のように静かだった。ボクは戦後のサンフランシスコ講和条約発効の年の生まれで「平和」しか知らないし、昭和の「戦争」とは何だったかをもっと勉強しないと本当の映画監督にはなれないと思ったのもその日だ。そして、「歌舞音曲」という語句も気になった。歌い、舞い、奏でる。それは芸能だ。それが消えた社会とは何だろう。その日はそんなことばかり考えていた。
奈良の実家に帰って、レンタルビデオ店に行くと『ラストエンペラー』(88年)があったが、もう見ていたので借りなかった。満洲国皇帝の溥儀の半生をその『1900年』の鬼才が描いたアカデミー賞モノだが、全篇、誰の台詞も英語ばかりで中国語のやり取りがなくウソらしかったからだ。借りたのは、B級コメディの『悪魔の毒々モンスター』(87年)だ。実はこのロイド・カウフマン監督には前年の来日時に、「次作の毒々は東京で撮るので安く撮る方法を教えてくれ」と相談されていながら、その代表作を見てなかったからだ。時間の無駄を承知で見てみたら、とんでもないゲテモノ。でも、逆に彼に励まされた。映画こそ自由を謳う“芸能”なんだと。
天皇崩御の後、世の中もにわかに変化し始めていた。リクルート事件でその創業者が逮捕されたり、ソ連では共産党独裁が揺らぎ出し、ソ連軍がアフガニスタンから撤退したり、世界も次の時代に向かっていた。
春先に『ミシシッピー・バーニング』(89年)を観た。1964年にミシシッピ州の田舎町で公民権運動の活動家3人が殺された事件を基に、FBI捜査官と町の白人主義団体の対決を描いていた。カメラがそこにあることを意識させない画面アングルが秀逸。アメリカの昔の監督が「画面はどこからでも撮れる。何百とアングルポイントはある。でも正しいアングルは一つ」と言ったのを思い出させてくれた。ボクも自分自身の変革を望んでいたような気がする。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。