7月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の四〜 足利義稙(よしたね)
1466~1523年
有馬と言えば温泉!ですが、中には競馬!という方もいらっしゃるでしょう。でも競馬の有馬記念って、実は有馬温泉と関係が大アリ。室町時代に有馬郡を治めていた有馬氏の子孫、有馬頼寧が競馬のグランプリレースを考案し、その姓から有馬記念になったのです。
そんな有馬記念でも感動的だったのはオグリキャップの奇跡、2年ぶりの復活勝利ではないでしょうか。一度頂点に立つも転落し返り咲くという筋書きはドラマチックでございますが、将軍にもそんな人物が1人だけおります。足利将軍第十代、足利義稙がその人です。
義稙の人生は苦難の連続。生まれた翌年に応仁の乱が勃発、12歳の時に終結したものの、その直後に父・義視について美濃に下り、ここで庶民と交流しながら24歳まで青春時代を過ごします。ゆえに将軍ルートは閉ざされた…と思いきや、なぜかおばの日野富子のバックアップを得て将軍レースに躍り出るどころか、九代義尚や対抗勢力の八代義政が立て続けに亡くなり、一気に将軍の座へ!
公方様となった義稙はイケイケで戦功をあげていきますが、あまりにもハードでついていけない大名が続出、反感を買い将軍職を追われて監禁され、つまらぬことから恨まれた富子に毒を盛られる始末。しかし命がけで脱出し、越中~越前~周防と逃亡生活15年。するとようやく千載一遇、対立していた細川政元が殺害され、このスキに義稙を保護した大内義興とその大軍を引き連れて周防から上洛し、43歳にして将軍職奪還大成功!
その後は義興、細川高国、畠山尚順、畠山義元の四大名を老獪にコントロールし、政権は比較的安定。そんな中、持病のケアのため有馬温泉へ。有馬は父の重臣で、応仁の乱の渦中で殺された有馬元家に縁が深い地ですので、感慨深かったでしょう。
ところが!有馬湯治で義稙が都を離れたスキに、義興が周防に帰っちゃうの。地元の方で尼子氏が台頭し、以前から気が気じゃなかったようです。
それをきっかに大名のパワーバランスが崩れて政情は混乱、結果的に義稙はまたまた将軍の座から引きずり下ろされ、亡命先の阿波で南無阿弥陀仏…。
義稙亡き後の足利将軍は名物の政治闘争の連続で戦国の沼にはまっていき、十五代義昭でもって幕府は滅亡してしまいます。ちなみに義稙や義昭が流浪時に頼った越前の朝倉氏は、其の壱でご紹介した有馬ゆかりの阿倍内麻呂の末裔だとか。で、朝倉氏は柴田勝家率いる織田軍に滅ぼされますが、その勝家を有馬びいきの豊臣秀吉が討つというのも何の因果でしょうかね。