7月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊴前編 稲垣足穂
稲垣足穂
一世紀経っても色褪せない大空への思い…神戸で育んだ飛行機少年の青春
飛行機への執念
大正時代の末。1923(大正12)年に刊行され、脚光を浴びた一冊の本がある。その本が、ちょうど一世紀が過ぎた2023年の今も多くの令和の現代人に読み継がれている。
タイトルは「一千一秒物語」。金星堂から出版された。作者の名義はカタカナ表記で「イナガキタルホ」。序文は詩人、作家の佐藤春夫によるものだ。
この「イナガキタルホ」とは、神戸で青春時代を過ごし、その後、作家となった稲垣足穂(1900~1977年)だ。
足穂は19世紀が終わる最後の年、1900年12月に大阪・船場で生まれた。父は歯科医だった。小学生の頃に、祖父母が暮らす兵庫県明石市へと引っ越している。
第一次世界大戦が始まった1914年、足穂は関西学院普通学部(旧制中学)へ進学する。
同校の同学年に、この連載(4、5月号)で紹介した後の作家、今東光がいた。
《その頃、私は舞子から、神戸の東郊にある中学校へ汽車通学をしていました》
これは、足穂の自伝「タルホ神戸年代記」(第三文明社)のなかの、タイトル「鼻眼鏡」の冒頭に出てくる一文で、旧制中学時代の同級生や下級生たちとの思い出や、神戸で過ごしたエピソードなどが綴られている。
たとえばこんな一文が…。
《七月に入ると、西洋人の先生たちは避暑地へ発ってしまい、課目は午前中だけになります》
ミッションスクールならではの話で、足穂が通っていた当時の関学の牧歌的な学校生活をうかがうことができる。
タイトル「古典物語」は、中学生時代の足穂が主人公と思われる小説だ。
《ボアザン式飛行機の発明者ボアザンとその操縦者のファルマンが、共に巴里美術学出身の画家であり、英国のグラハム・ホワイトが音楽家で、日本の滋野男爵が又上野音楽学校を出た人であることを、多理は知っていた》
このボアザン(ヴォアザン)式飛行機とは、シャルルとガブリエルのボアザン兄弟が創設したフランスの航空機メーカー「ヴォアザン航空機」で製造されていた飛行機のこと。
アンリ・ファルマンはヴォアザン機を操縦し、長距離飛行記録を作った仏人パイロット。また、グラハムは英国初のパイロットで、滋野男爵は渡仏し、〝バロン滋野〟と呼ばれた仏陸軍のエース・パイロットのことだ。
閉ざされた航空界への道
当時の世界の航空界について詳しい飛行機好きのこの少年、多理こそが足穂である。
文章はこう続く。
《―だから、と窓枠に嵌った虚空界を見やりながら、多理は些か気取った断想を追った。空中は人間にとって別世界である。二十世紀の今日、飛行機を馳って天際遥かに遊ぶというのは、芸術家達の久しい間の欲望であったことが判る》
足穂は学生時代、文学や芸術に傾倒しながらも、「将来、いつかは自分も飛行機のパイロットとなって天空を駆け巡りたい」という夢を膨らませていた。
さらに文章は続く。
《雲や風は歌にも画にも将又(はたまた)旋律にも、最も恰好な題材であるから、まして飛行機のハンドルを執ってこの未知の領土に飛び込んだ人々の胸裡には、云い得ぬ美的観念が生じる筈である》
誰もが少年時代、一度はパイロットになりたいと考えたり、口にするものだが、足穂のそれは人一倍強かった。
その覚悟は、小説の中でこう綴られる。
《―多理の名は其頃、飛行機のことで他の級まで知られていたが、これは何も単独に山並や南面の窓辺に描いている幻想に依るものではない》と。
現実に足穂は1916年、パイロットを目指して上京。その年、東京・羽田に創設された国内初の民間操縦士の養成学校「日本飛行学校」の第一期生を志望し、受験する。だが、極度の近視だったために足穂は不合格となってしまう。
同じ年に受験した志望者の中には、後に特撮映画の第一人者となる円谷英二監督もいた。
円谷は晴れて受験に合格するのだが、翌1917年、唯一人の教官が墜落死するなど同校は活動停止に。足穂と同じように、円谷の空を飛びたいという夢も潰えてしまうのだった。
夢に破れた足穂は自殺も考えたという。だが、踏みとどまり、1919年に関学を卒業。大空への夢を追い続け、神戸で複葉機製作を始めるも、これにも失敗。再び上京を決意する。
飛行機少年だった足穂の夢は幾度も打ち砕かれるが、大空を恋焦がれる熱い思いは尽きることはなかった。その情熱は小説の中で結実していくことになる。
=続く。(戸津井康之)