4月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.29 寛一郎さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第29回は俳優、寛一郎(かんいちろう)さん。
文・戸津井 康之
初挑戦にして〝最後の舞台〟と覚悟…
俳優としての岐路を予感
新たなハードル
「台本を読んで、この芝居は映画やドラマなど映像ではなく舞台でしか表現できない世界だと思いました。〝最初で最後〟の覚悟でこの舞台に臨むつもりです」
今、勢いに乗る旬の若手俳優、寛一郎さんは表情を引き締め、決意表明のように、こう語り始めた。
昨年、国民的人気のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源頼家の息子、公暁役に抜擢。その鬼気迫る演技が話題を呼び、人気が全国区にブレーク。映画やドラマへのオファーは絶えないが、「実は舞台で演じること自体が初めての経験なんですよ」と明かす。
先月、東京公演を終え、今月9日に大阪公演が迫った舞台「カスパー」で初主演に挑んでいる。
「舞台では地域ごとに演劇ファンの対応も違うと聞いています。関東と関西の演劇ファンの〝差異〟を実際に舞台の上で感じてみたい。どう反応が違うのか、今から楽しみで…」と意欲を見せる。
初挑戦ながら、ノーベル文学賞作家、ペーター・ハントケ作、渡辺謙主演の舞台「ピサロ」などを手掛けた名匠、ウィル・タケットの演出という〝大舞台〟が用意された。そこで堂々の座長を張ることになったのだから、「最初で最後…」と悲壮な覚悟を口にするのもうなずける。
「正直、元々、舞台に興味があったわけではないのですが…」と前置きした上で、「渡された台本を読んでいて、芝居の脚本を読んでいるという感覚ではなく、一冊の本を読んでいるような気持ちになりました。それも掘れば掘るほど興味、面白みが沸いてくるような…」
脚本に惹かれ、しだいに舞台への思いは募っていった。
19世紀はじめに実在したドイツ人孤児、カスパー・ハウザー(1812~1833年)が主人公。16歳で救出されるまで、カスパーは地下牢で監禁されていたため、言葉を話すことも文字を書くこともできなかった。そんな少年が、突然、広い世界へ投げ出される。言葉を知り、言葉に意味があることを理解し、意志を持ったとき。カスパーはどう変わっていくのか…。
「16歳でカスパーは初めて言葉を習い、常識を習得し、わずか4年ほど生きただけで21歳で亡くなってしまいます。この数奇な運命を生きたカスパーという若者を知る人も、知らない人も、この舞台を見て何かを感じとってほしい。僕はカスパーを人ではなく、カスパーという概念としてとらえています。誰の心の中にも〝カスパーは存在する〟のではないかと…。この思いを何とか舞台で伝えることができたら」と抱負を語る。
瞬発力と持続力
俳優として初めて挑む舞台の世界。生活にも変化は表れたのだろうか。
「舞台の稽古は毎日午前10時半に始まり、午後6時には終わります。これまでは完全に夜型の生活だったので、早寝早起きの規則正しい生活になりましたね。夜になるとすぐに眠たくなりますから」と苦笑する。
映画やドラマなどでは撮影が深夜になっても終わらず、未明に及んだり徹夜になることなどざらだから。
「夕方、舞台稽古が終わると家へ帰って台本を読み、あとは早めに寝るだけ。サウナが唯一の楽しみですかね。サウナに入っているときだけ、頭の中に台本以外の余白が生まれるんです」と語る。
舞台は約80分。芝居途中のインターミッション(休憩)は無し。その間、主演のカスパーはほぼ出ずっぱりだという。
「タケットは身体表現の演出のスペシャリストと呼ばれていますが、今回は少し趣が違う。僕が激しく踊るシーンはあまりないかもしれませんよ。では、どうやって表現するのか? それは、実際に舞台を見て確認してほしい」
映画俳優として〝銀幕デビュー〟して約6年。
「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(廣木隆一監督)、「菊とギロチン」(瀬々敬久監督)、「一度も撃ってません」(阪本順治監督)などに出演。日本の名匠と呼ばれる監督たちの指導を受けてきた。
ドラマ出演も多い。NHK大河をはじめ、TBS系の日曜劇場枠「グランメゾン東京」で主演の木村拓哉さんと共演し、俳優としてのキャリアを磨いてきた。
それでも、「これまで身につけてきたカメラの前での演技の手法と、舞台とはまったく違います」と打ち明ける。
その違いについて、「映画、ドラマなど映像の芝居では、ワンシーンワンシーンを演じる瞬発力が必要ですが、舞台では持続力が求められますから」と説明。
そして大きな課題がもう一つ。
「セリフの発声が大きく違う。語尾をはっきりと発音するようにと、ずっと怒られています。映像と違い、セリフの語尾が聞こえないのは舞台では御法度です。共演者たちにも注意され、自分では意識しているつもりですが、なかなか直らなくて」と困惑した表情を浮かべた。
俳優として生きる
父は今や映画やテレビドラマなど映像界で欠かせない存在の実力派俳優、佐藤浩市。祖父は歴史に残る数々の名画や傑作ドラマに名を刻む大御所俳優の三國連太郎。
俳優の家系に生まれた三代目の宿命として、世間は当たり前のように、自分に俳優になることを求め、また、そう期待されていることをひしひしと感じながら育ったという。
「でも、俳優は、歌舞伎の世界のように跡を継ぐことを運命づけられたわけではありません。幼いころから俳優になりたいと言ったこともなかったんです」
だが、18歳になり、将来や仕事について意識し始めたとき、この考えに変化が表れる。
「言葉で表すのは難しいのですが、俳優をやるしかないと思った」と言う。そして、「俳優という仕事と向き合うために18年が必要だった」のだとも。
あえて名門の「佐藤」という苗字を伏せ、「寛一郎」を名乗って俳優としてデビューしたのは、そんな揺れ動く心情の表れだったのかもしれない。
それでも、この「寛一郎」という名には俳優の宿命を託された奥深い意味が込められていることも自覚している。
体重1600グラムしかない未熟児として生まれ、両親は「寛大に育ってほしい」という願いを込め「寛」の文字を授けた。イチは父、浩市からの一文字を、ロウは祖父、連太郎からの一文字を…。
「今は、もう俳優の家系を隠そうとは思わない。俳優として生きていくと決めたからには、この宿命を咀嚼し、活力に変えていくしかないと思っています」と迷いを振り切るように語る。
舞台初挑戦に対し、父として、俳優の先輩として。佐藤浩市さんから何かアドバイスの言葉はあったのだろうか。
「父に知らせると、『えっ、舞台に出るのか?』という言葉だけ。ただ、驚いていましたよ」と笑いながら教えてくれた。
俳優として豊富なキャリアを持つ佐藤浩市さんだが、実は舞台の経験はない。
「でも、母は舞台女優でしたからね」とすかさず寛一郎さんは口にした。
映画俳優としてデビューし、ドラマにも呼ばれ、次に舞台に、それも主演として立つことを決めた。これは、やはり俳優の家系に生まれた三代目としての宿命といえるのでは―。
そう向けると、寛一郎さんはうなずきながら、「結果として、そうなっているのは確かですね」とにやりと笑みを浮かべた。
舞台への挑戦を、「自分の人生を見つめ直すターニングポイントとなるのは間違いないでしょうね」と語り、こう続けた。「この舞台が終わったら、今までの自分とは変わっていると思う…」
穏やかな表情だった。だが、あえて高い壁に挑み、俳優としての宿命を貫こうという強固な意志、覚悟が滲み出ていた。
寛一郎(かんいちろう)
1996年8月16日、東京都生まれ。2017年、映画『心が叫びたがってるんだ。』で俳優デビュー。同年『ナミヤ雑貨店の奇蹟』に出演、翌年『菊とギロチン』でキネマ旬報ベストテン新人男優賞を受賞。2022年にはNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で源実朝を暗殺する公暁役を演じた。