4月号
神戸で始まって 神戸で終る ㉖
第14回展は「ヨコオ・マニアリスム」と題して2016年8月6日から11月27日まで開催された。当館は僕の絵画、版画、ポスターなどを所蔵すると同時に、作品のモチーフとなった写真や印刷物、制作過程でのメモや下絵、版下、パレットのほか、作品から派生する商品やレコード蔵書などありとあらゆる興味の対象になったものをコレクションしている。このような多種多様な資料はダンボールに700箱にのぼるが、本展にはそのほんの一部が紹介された程度で、果たしてこのダンボールの箱が全部開放されるにはまだ10年、いや100年の時間を要するのでないか、と作家の僕は暗澹たる気持ちで、解消されないまま、彼岸に旅立つことになろうという事実だけは確かである。まあ気が遠くなる話であるが、考えようでは未来永劫、横尾忠則現代美術館に展示される作品や資料が存在しているといわけだ。
さて本展の「ヨコオ・マニアリスム」は学芸員の平林恵によるキュレーションで、彼女のマニアック思考が存分に発揮された展示会になったのではないか。参考までに述べておくが、彼女の編集した当館のカタログは、一般書籍としても販売されたほど中味の濃い単行本になっている。美術館のブックストアーでぜひ手にして、この展示会が如何に多角的な切り口を持った展覧会であったかを想像していただきたい。また本文への解説は、作家の平野啓一郎さんからの「あなたの頭の中は、一体どうなっているんですか?」というアーティストへの問いが、本展をさらにミステリアスなものにしてくれている。
そうか、本展は作家である僕の脳味噌を解体して見せられた展覧会だったのか。展覧会場は作品の情報があまりにも多様化していて、作家本人の僕でさえ、自らの肉体というか精神の迷路に押し出されたような気分になってしまった。会場の壁には大きい作品が展示されていると同時に所狭しといたるところに過剰なほど「創造」がはみ出しているが、この現象はそのままキュレーターの平林恵の脳味噌でもあるように思わないと、何だか自分がわけがわからない存在に仕立てあげられているように思えなくもない。一方でこれほど自虐的な快感体験はそう度々起こるものではない。本展のカタログ(単行本)はvol.1となっているが、ぜひvol.2、3、4、5、6と700箱のダンボールを開きながら本展の続編を期待したいものだ。
学芸課長の山本淳夫によると、この「ヨコオ・マニアリスム」は、そのアーカイブ資料を調査過程をもライブで観客に公開するという参加型の展覧会として紹介している。展覧会の期間中、会場が職員の仕事場になり、美術館と観客の距離をフラットにしてしまった。会場には僕の35年分の日記に着目した平林は作家である僕の生活と制作の関連性を探りながら、日記に頻出するモチーフや一時期集中して、現れるテーマから展覧会のキーワードを設定し、関連作品とアーカイブ資料に加えて作家の自宅にある海外の作家の作品のコレクション等も展示構成した。「日記」「夢」「福助」「少年時代と郷里」「郵便少年」「パレット」「記号としての日本」「猫とモーツァルトと涅槃」「髑髏」「ビートルズ」という10項目が相互に響き合うような空間の中心にはアーカイブルームの機能を備えた作業スペースを設け、先に述べたように調査活動そのものを公開した。作品とその関連資料をひも解くとともに、制作のあらゆるプロセスを素材として作品として提出する「横尾忠則」の生き方に迫ったと言う。なんと恐ろしい計画を立てたものだ。
展覧会期間中、細野晴臣、糸井重里と僕の鼎談が行われたが、この頃から僕は難聴が激しくなって、2人の話がほとんど理解できなかった。耳が聴こえないということは困ることが多いが、時には聴こえないことで便利がいいこともある。人間は口と耳の機能を最大限に利用して人間関係を構築していくわけだが、時にはわずらわしいこともある。それは難聴になって初めて、われわれは日頃、如何に多くの言葉の被害を受けていたかということを改めて認識させてくれたのである。そういう意味でも美術は言葉のないコミュニケーションツールである。僕は日頃から絵を通して没言葉の世界を創造していることに改めて気づかされている。
美術に限らず、音楽やダンスなどは肉体の介在によって言葉を越えた言葉の世界を創造していることに改めて気づくのである。ある意味では、言葉を排除することで、より言葉の世界に迫ろうとするこの非言語的ハンディキャップは難聴を通して、新たな視覚言語の世界に迫ることが可能なのではないだろうかと、非言語的な世界を創造の領域としている美術家としての資質に思わず感謝したくなるのだ。
本題から話がズレてしまったが、明らかに難聴をはさんでそれ以前とその後の作品に大きい変化を見るようになった。また当学芸員諸氏が、僕の難聴というハンディキャップをテーマにした展覧会をいつか計画するかもしれない。難聴は言葉の輪郭が明瞭さを欠く現象である。その状況を視覚に置き換えると、事物や色彩の輪郭が朦朧とすることである。存在する事物が溶けたり重なったりする現象から、個々の存在などさほど重要ではなく、実に曖昧で、本来どうでもいいことなのではないかと思うようになった。ねばならないという観念はいつの間にか僕の中から消えつつあるような気がして、うんと自由のキャパシティが拡大されていくような気がする。幸い美術は言葉を必要としない。だったら僕の中から難聴によって言葉が奪われていくということは実に自然体であるような気がする。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。
横尾忠則現代美術館にて4/9より、開館10周年記念「横尾忠則 寒山拾得への道」展を開催。3/24、小説「原郷の森」(文藝春秋社)が刊行された。
http://www.tadanoriyokoo.com